【日本モード誌クロニクル:横井由利】『エル・ジャポン』は独自路線を歩み始めた--6/12前編

2013.12.31

「とにかく、6ヶ月から1年でエルの輪郭を作り、結果をだそうと思ったんです」。その決意は、特集主義となって現れた。これに対して、エル・インターナショナル部が出した条件は、表紙は必ず女性が登場し、台割の流れを年間で変えないこと、エルのトーン&マナーが好きで買ってくれる読者を裏切らないことだった。

当時推奨されていなかった「特集」が、やはり日の読者に不可欠と判断した森編集長は、モード誌が手掛けなかった「特集」「NYガイド」「身体を意識したヒーリング」「エイジレスの女性たち」、今より少し先を見た特集を毎月矢継ぎ早に送り出した。

本の売れ行きも伸び、それにともないクライアント(広告出稿者)の信頼を勝ちえると、海外からチェックに毎月訪れる来客も減っていった。

1周年記念号は、もう一度「パリ特集」。その年は「日本におけるフランス年」にあたり、大使館と手を組み、フランスブランド紹介の冊子を作り、別冊付録とし、フランス関係の企業にも配布した。

ビジネス的にもいける!と感じた森編集長は、1周年記念号より、出版社にとってコストの問題をはらみ困難とされる紙質の変更を行った。「クライアントが出稿する広告は確実にきれいに見える」との理由で、PPを掛けた表紙(光沢のある表紙)と、中ページの紙質を良くした結果、ビジュアルは格段に改善された。

森編集長が作る『エル・ジャポン』の表紙には、一つの特徴がある。何かしらの数字が記されていることだ。ある時は、特集のページ数、ある時は、掲載されているアイテムの総量、フィーチャーした人物の数という具合だ。数字へのこだわりについて聞くと「デザイン的に、日本語と欧文だけだと意外に変化に乏しく、そこに数字が入ると締まる。数字はキャッチーだから、書店に雑誌が並んだときに目に飛び込んでくるでしょ。それと、特集と言って6Pや8Pじゃ、読者は満足しない。こんなにたくさんありますよ、と具体的に数字で示すことで説得力を高めていました」と森編集長。

無事1周年を迎え順風満帆に見えた『エル・ジャポン』に、1999年の『ヴォーグ ニッポン』(現 ヴォーグ・ジャパン)創刊という嵐が襲った。それは、スタッフの引き抜きに始まった。『ELLE』の編集者なら、インターナショナル誌のノウハウがあるという理由から『VOGUE』は『ELLE』のスタッフを引き抜くのが世界的な慣例になっている。

「引き止める術もなく、手塩に掛けた子供が巣立つ姿を見守るような寂しさを感じました」と、森編集長は、胸の内を明かした。

そして、『ヴォーグ ニッポン』による有名フォトグラファーセレブモデルなどの囲い込みや、クライアントへの攻勢が続いた。しかし、ラグジュアリーマーケットを狙った『ヴォーグ ニッポン』と違い、エルはもう少しアクセシブルなポジションを築いていたので、読者を食い合うほどの現象は起きず、広告への影響も最小限に食い止めることができたという。

その後、世界のマーケットを震撼させた、2008年9月のリーマンショックが訪れるまで、モード界はプチバブルの時代が続いていた。リーマンショックの余波を受けることなく、『エル・ジャポン』にとって、10周年300号を記念する09年には、広告出稿量も増え、おまけに別冊にしたいとのブランドからのオファーを受けて、毎号のようにブランドブックを製作して別冊を付けた。本誌も530P超を記録し、かなりおデブな『エル・ジャポン』が、書店で平積みにされていたのを思い出す。

7/12へ続く。編集長が森明子から塚本香へ。
Yuri Yokoi
  • 『エル・ジャポン』1998年5月号。森明子編集長就任から1周年目
  • 『エル・ジャポン』2009年10月号300号。デザイン効果と読者の興味をそそる、表紙の数字
  • 『エル・ジャポン』2007年10月号。530ページを超えた
ページトップへ