中央公論社には、婦人公論という革新的な生き方を目指す女性に向けた雑誌が存在し、巻頭のグラビアページではモードの先端を伝える企画も存在していた。ただ『マリ・クレール』を出版するには、ファッション業界を熟知するプロフェッショナルが必要だった。
3代目の白井和彦編集長は、伊勢丹研究所を退社しマスコミデビューしていた、気鋭のジャーナリスト小指敦子(こざす・あつこ、故人)にファッションの手ほどきを受けることにした。それに応えて小指敦子は、持ち前の機動力、洞察力でモード界の旬をキャッチし、日本ではまだ知名度が低かったジャンポール・ゴルチエのインタビュー、パリコレで存在感を示し始めた川久保玲や山本耀司のインタビューを行い、他誌とは一線を画した視点で80年代モードをレポートした。
カール・ラガーフェルドが1983年にシャネルのデザイナーに就任し、日本での展開が充実する頃に、小指はいち早くココ・シャネル特集を企画し、シャネルの真髄に迫った。勿論、ファッションページは、カールによる最新版のシャネル・スタイルだ。続く、クリスチャン・ディオール特集では、ディオール・ストーリーの目玉としてメゾンに残されていたムッシュ・ディオール時代のドレスを撮影、仏『marie claire』の山崎真子のスタイリングで現代(当時の)に甦らせた。
「ブランド好きの日本人」と揶揄されていた時代に、ブランドの魅力を掘り下げ、そのアイデンティティーを浮き彫りにした大特集は、読者=消費者を啓蒙した。更に『エル・ジャポン』のファッションディレクターからフリーランスのスタイリストになった原由美子の連載モードページがスタートし、盤石の体制が敷かれた。
当時の『マリ・クレール』を語るとき、忘れられない人がもう1人いる。文芸誌『海』が廃刊となり、マリ・クレール編集部にやって来た安原顕(故人)だ。中央公論社を退社して作家となった村松友視は、安原顕について、
“とくに、『マリ・クレール』の書評欄は『海』の色に染まっており、それが強面しながら雑誌の芯となり。『マリ・クレール』に男性読者がつくという効果を生んだのは、ヤスケンの大手柄だった。こういう書評欄は、ヤスケン以外には発想できないし、作品といい筆者といい、ヤスケン以外には組めないラインナップだった。”
と、『ヤスケンの海』(幻冬舎)に記した。
安原顕が企画編集した「特集・読書の快楽 ― ジャンル別ブックガイド・ベスト700」を始めとする快楽シリーズ、「淀川長治、蓮見重彦、山田宏一による映画を語る世紀の大座談会」連載、吉本ばななの小説「TUGUMI」連載(単行本化されると200万部以上売り上げた)などの話題企画に吸い寄せられて、男性でさえためらうことなく、書店で女性モード誌『マリ・クレール』を購入したという。
当時の若い女性の中には、男性目線を断ち切り、流行に振り回されず、自分表現のツールとしてファッションを求め、難解な文章を読み解き知性を身に纏うことが、最もおしゃれと確信するものがいた。こうして、世界に類を見ないエッジィなモード誌は、独自のスタイルで一時代を築いた。モード誌には公称部数と実売部数が存在し、暗黙のうちに公称部数が1人歩きするものだが、当時の『マリ・クレール』は実売8万部を記録した。
参考文献
村松友視著『ヤスケンの海』(幻冬舎刊)
(11/12に続く。生駒芳子編集長の“エコマリクレ”。)