画家のワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)は1866年12月4日生まれ。ロシア・モスクワ出身。グレゴリオ暦では12月16日生まれとなっている。1944年12月13日逝去。
モスクワの中流家庭に生まれ、5歳の時に黒海沿岸の港湾都市オデッサに移住すると、間もなく両親が離婚。この頃から趣味として絵を嗜むようになるが、モスクワ大学では法律について学び、卒業後は大学の法学部で助手として働くようになる。
そんな、カンディンスキーにとって転機となったのが、モスクワで開かれたフランス美術展だった。出展されていたモネの「積みわら」に衝撃を受けた彼は、96年にミュンヘンへと移住。ミュンヘン美術アカデミーに入学すると、象徴主義を代表する画家フランツ・フォン・シュトゥックの下で、作品の制作に没頭するようになる。
その一方でカンディンスキーは01年に、仲間と共に芸術家集団「ファーランクス」を設立し、以降数年にわたって数々の展示会を開催している。また、美術学校も立ち上げており、生徒のガブリエーレ・ミュンターを指導するようになると、間もなく2人は恋仲となった。当時カンディンスキーには妻がいたが、04年に離婚すると、ミュンターと共に制作旅行としてヨーロッパ各地を旅している。09年にはミュンヘン新美術家協会を結成。この頃、カンディンスキーはアルプスの麓にある村ムルナウへと移住しており、11年に協会の会長職を辞すると、仲間と共に年刊誌「青騎士」を発刊した。その内容は“形象からの脱却”を目的としており、この地でカンディンスキーは後の代表作となる「コンポジション」シリーズを相次いで発表している。そこには物の姿かたちではなく、その現象や、それを見た人の内面がイメージとして描かれており、抽象主義からの脱却を目指したカンディンスキーの意図が見て取れる。その作風は後に抽象主義と呼ばれるようになり、彼はその第一人者として、絵画界に多大な影響を与えていった。
しかし、間もなく第1次世界大戦が勃発すると、青騎士は自然消滅し、カンディンスキーはロシアへと帰国。レーニン政権下のモスクワで造形芸術局(IZO)のメンバーとなると、演劇・映画部長などを務める傍らで、絵画文化美術館の館長に就任している。21年にはドイツに移住し、美術と建築についての総合学校バウハウスで教官となった。
33年にナチスによってバウハウスが閉鎖されると、カンディンスキーはパリへと移住し、フランス国籍を取得している。第2次世界大戦でフランスがドイツに占領されると、彼は展示会などへの出品を禁止されるが、それに負けることなく生涯現役として抽象絵画を制作し続けた。