ミュージシャンのリアム・ギャラガー(Liam Gallagher)は1972年9月21日生まれ。本名は、ウィリアム・ジョン・ポール・ギャラガー(William John Paul Gallagher)。イングランド・マンチェスター出身。
3人兄弟の末っ子として生まれ、アルコール中毒の父親におびえる幼少時代を過ごす。中学時代には暴力が原因で退学処分を受けるほどの悪童だったが、16歳の時に観たストーン・ローゼスのライブをきっかけに音楽に関心を持つようになる。その後、学校の仲間の誘いを受けて、91年にロックバンド「ザ・レイン」にボーカルとして加入。やがて、バンドが名前を「オアシス」に改名すると、兄のノエル・ギャラガーも合流し、以降はギャラガー兄弟がバンドの中核を担うようになる。
94年にデビューシングル『スーパーソニック』を発表すると、UKチャートで31位を記録。そのわずか5か月後にはアルバム『オアシス』でUKチャートの1位に上り詰める。95年に発表したセカンドアルバム『モーニング・グローリー』も全英1位、全米4位を記録し、イギリスで“最も売れ行きが速い”アルバムの記録を塗り替えた。
一方で、オアシスはライブでもロック史上に名を残す記録を打ち立てている。セカンドアルバム発表直後、ロンドンのアールズ・コートで行った野外ライブは、2日間で延べ4万人を導入するというギネス記録を樹立。96年にロンドン郊外のネブワースで行われたライブでは、2日間で25万人を動員し、チケット予約にはその8倍にも及ぶ200万件の注文が殺到したという。
しかし、そんなオアシスの成功の陰には、常にスキャンダラスな話題があった。93年に「ザ・ヴァーヴ」のギグに参加する予定だったオアシスは、オランダ行きの船でもめ事を起こして強制送還される始末に。サードシングルのリリース翌日にはステージに乱入した男と乱闘を繰り広げ、アメリカ西海岸での公演ではリアムとノエルが乱闘騒ぎを起こしている。また、マスコミが煽ったこともあり、95年ごろにはロックバンド「ブラー(Blur)」との対立も激化していた。
その一方で97年にはサードアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』で、またもやUK最速セールス記録を更新。98年にはシングルB面曲を集めたコンピレーションアルバム『マスタープラン』でUKチャートの2位を記録している。しかし、99年には初期メンバーのポール・ボーンヘッド・アーサーズ(Paul Bonehead Arthurs)と、ポール・ギグジー・マッギーガン(Paul Guigsy McGuigan)がバンドを脱退。オアシスの人間関係には、兄弟の不仲を超えた亀裂が入り始めていた。
その後も幾度となく解散の危機を重ね、ギャラガー兄弟による乱闘騒ぎやライブのボイコットを繰り返しながらも、オアシスは活動を続けていく。00年に発表した『スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ』に始まって、08年にリリースの『ディグ・アウト・ユア・ソウル』までの全アルバムでUKチャートの1位を記録。01年にはフジ・ロック・フェスティバルのメインアクトとして来日し、過去の最大動員数を塗り替えている。
しかし、09年についにノエルがメンバー脱退を宣言。オアシスは解散状態となった。これを受けて、10年にリアムは新バンド「ビーディ・アイ」を結成。翌年にデビュー・アルバム『ディファレント・ギア、スティル・スピーディング』を発表している。
一方、私生活ではファッショニスタとしても知られており、国内外のファッション雑誌に彼の姿がたびたび掲載されている。好きなブランドは「クラークス(Clarks)」 「ポール・スミス(Paul Smith)」「リーバイス(Levi's)」「アディダス(adidas)など。来日の際には大量の服を購入していくことで有名となった。09年にはブランド「プリティグリーン(Pretty Green)」を設立し、12年には東京・青山に海外初店舗を東京・青山にオープンし、現在国内に名古屋、大阪、札幌、福岡の直営5店舗を展開。60・70sのUKロック、モッズなどの音楽とファッションの歴史を踏まえた、正統派ブリティッシュスタイルとして高い評価を受けている。
97年に女優のパッツィ・ケンジット(Patsy Kensit)と結婚するが、そのわずか1週間後にリサ・ムーアリッシュ(Lisa Moorish)と浮気をして、長女モリーを儲けている。結局、パッツィとは00年に離婚し、その後はミュージシャンのニコール・アップルトン(Nicole Appleton)と交際。息子のジーンも誕生し、08年に結婚するが、13年にジャーナリストのリザ・ゴルバーニ(Liza Ghorbani)との間に隠し子がいたことが発覚。14年にニコルとは離婚することになった。