建築家の丹下健三は1913年9月4日生まれ。大阪府・堺出身。2005年3月22日逝去。
銀行員だった父の転勤に伴い、生後間もなく中国に移住。7歳のときに帰国すると、愛媛県で小中学生時代を過ごし、旧制広島高校に進学する。そこで丹下は、その後の運命を決定づける1冊の本と出合う。世界的な建築家ル・コルビュジェによるソビエトパレスの計画案を見た彼は、建築家としての道を歩むことを決意。35年に東京帝国大学工学部建築科に入学すると、同学科の最優秀賞・辰野賞を受賞するなど、早くからその才能を開花させていった。
大学卒業後は前川國男建築事務所に入所。しかし、間もなく戦争を迎えると事務所の仕事は激減し、丹下は再び大学に戻り、大学院で都市設計を学ぶようになる。すると、42年には「大東亜建設記念営造計画」のコンペで1等を獲得。43年の「在盤谷日本文化会館計画」のコンペでも入選を果たし、丹下の名は一躍業界に知れ渡っていく。
終戦後、丹下は原爆によって焦土と化した広島の復興に取り組むことになる。49年に世界平和記念聖堂のコンペで1等を獲得したのを皮切りに、広島平和記念公園、広島市児童図書館などを次々と建設。その一方で、47年からは戦災復興院による戦災復興都市計画に参加するなど、日本各地の都市計画を手掛けていった。62年には、戦災で消失した東京カテドラル聖マリア大聖堂再建のために行われたコンペに見事一等当選。カトリック教徒であった丹下の葬儀もここで行われた。
やがて戦後の復興に一区切りがついた頃には、丹下は日本における近代建築を代表する建築家となっていた。その名を世界に知らしめるきっかけになったのが、64年に建設された国立代々木屋内総合競技場である。東京オリンピックに向けて建築されたこの建物で、丹下は内部に柱を持たない吊り構造を採用。すると、国際オリンピック委員会から特別功労者として表彰されるなど、丹下の作品は国内外で高い評価を受けた。70年に開催された大阪万博では大屋根の設計を手掛け、それを突き破るように太陽の塔がそびえ立つ様が、訪れた人々の度肝を抜いている。
その後は主に海外の都市計画に従事していたが、86年に行われた東京都庁のコンペでは、都が丹下の設計案を選定。完成した建物は新宿のランドマークとなり、丹下の健在ぶりを国内に知らしめることになった。
これらの活動が評価され、93年には高松宮殿下記念世界文化賞建築部門を受賞。その他、数多くの建築賞を受賞しており、06年には広島平和記念資料館が、戦後の建築物としては初めて重要文化財に指定されている。
2005年3月22日、心不全のため91歳で死去。自ら設計した目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀が行われた。