【日本モード誌クロニクル:横井由利】二つの産みの苦しみから誕生したヌメロ・トウキョウ--7/12後編

2014.02.19

フランス語で番号を意味する「Numero」は、1999年バベット・ジアンによって創刊されたフランスのモード誌だ。モードのポストモダンが終焉を迎えた1990年以降、リアルクローズこそモードの最前線と言われるようになった時代に、洗練されたフランスのモダニティーを、エッジの利いたビジュアルで表現する「Numero」がデビューし、創刊当時からモード関係者の間では話題となった。どちらかというとインディーズ的な香りを漂わせたこのモード誌は、VOGUE やHarper's BAZAARなどの王道モード誌に淘汰されていくのではとの大方の予想を裏切り、独自のスタンスを貫き、世界的なモード誌へと登り詰めていった。

ではモード誌に対して一種のアレルギーがあり、部数、広告共にビジネス的に成立しにくい雑誌と見なされていた。ところが、1990年代後半になるとエル・ジャポンの成功とヴォーグ上陸を契機に、広告主が動いた。広告には、ブランドのイメージを向上させる役割と実売に結びつける役割、二つの目的がある。ラグジュアリーブランドでは、イメージのコントロールは重要案件とされ、どんなに大部数でもイメージ的にそぐわない雑誌とのリレーションは難しいと判断されるのだ。また、ラグジュアリーブランドが日本上陸から30年以上経つと顧客の高齢化が進み、新規顧客を開拓する時期になっていた。つまり、部数的には弱いモード誌でも、ラグジュアリーブランドの広告が入る必然性が生まれた。

こうした時代の流れを察知し「Numero」に賭けようと、IT関連のMファクトリーという会社は子会社ラ・カシェットを設立し、仏版Numeroの輸入総代理店となり、仏版を翻訳したタブロイド判を差し込み展開していた。数年後、日本版創刊に向けて編集長候補を探し始めた。

「ヴォーグのエディターをやっていた2005年のこと、ヌメロの編集長を捜しているから推薦したいという電話があり、編集長の経験がないので、編集長はしかるべき方をたて、ファッションディレクターならできるかもしれないということで、ラ・カシェットの方とお目に掛かりました」と、現ヌメロ編集長の田中杏子さんは語る。

ラ・カシェットからの強い要望もあり、結果的に編集長を引き受けることになった田中杏子は、2005年10月にヴォーグを退社し、アシスタントを1人連れて、ヌメロ日本版の編集部作りに取り掛かった。親会社Mファクトリーと同じ六本木ヒルズの39階のだだっ広いオフィスを与えられたのはいいが、翌年1月にライブドア(38階にあった)の堀江貴文以下数名の逮捕者を出したライブドア事件以降、銀行はIT関連の会社へ貸し渋るようになっていった。そのあおりを受けて、規模を縮小していく親会社を横目で見ながら、編集部を元代々木に移し、広告営業のパートナーとなった常見大作と共に、創刊に向けた試算を続けることになった。スタッフの絞り込み、会社経費の削減とシミュレーションを繰り返し、初めて現実的な創刊イメージが完成していった。

ところが、1年余りの準備期間を費やし、創刊を間近に控えた2007年1月23日、ラ・カシェットの役員からこの事業を丸ごと買い取ってくれるところを至急探して欲しいとの要請があった。それは、1週間後に引き受け先が決まらなければ、創刊はないものと覚悟してくれとの厳しい内容だった。

モード誌を毎月出していくためのランニングコストや、キャッシュフローを考えると、ITバブル崩壊の余波を受け弱体化した新興企業では、創刊にたどり着くことさえ困難だったのだろう。

扶桑社がラグジュアリーブランドを扱う女性誌の出版に前向きであることを知り、田中編集長は、当時の朝倉役員と片桐社長、両氏を訪ね、ことの経緯と成功への秘策をプレゼンした。結果、1週間後にヌメロを引き受けるとの返事が返ってきた。

「ほんとうに、ディープインパクトでしょう?その時私は臨月だったんですが、3kgも痩せてしまいましたもの」

いや、女は強し、母は強し。それほどタフじゃなければ、編集長は勤まらないのだ。

8/12に続く。
Yuri Yokoi
  • 『ヌメロ・トウキョウ』創刊号
  • 『ヌメロ・トウキョウ』創刊準備号
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