Part 1 加藤訓子×黒田育世×高木由利子
Part 1の音楽は、ライヒ。「彼の音楽は、躍動的。根底にアフリカのリズムがあるので、パーカッションに適し、繰り返し続けられる強さがある」と、加藤。その奏でるマリンバの音は、聞く者の身体に振動を起こす。直截で強く、余韻はたおやかな音色。舞台下手には、2mはあると思われる脚立が置かれ、その上に高木がすわる。古代の森のなかにいるような空気感がただようなか、人間の生をまっすぐにみつめているような黒田の表現。ブルーの衣装をまとい、何かを求めているよう。床を打ちつける音、呼吸の音。時に、激しい動きが胸に迫ってくる。「訓子さんの音は、古代にあった音だと思います。その一音一音が蓄積されていって、オーバードライブする」
黒田は、演出上、高木を目撃者として設定。「作中に過去として切り取られて、命が封じ込められているものがある。それが、目撃され、証拠がここにあるという感覚は、身体にも響いてきますし、身体として投影されていて、いただくものがすごく多いですね」
黒田の衣装は、「DELTA」という名のついた、ブルーの生地にブルーの箔が押された新型の「132 5. ISSEY MIYAKE」。着用したときには、箔が散らばり、大きな三角形がいくつも現れる。この服からも、黒田は、イメージを広げていった。「三角形にたたまれた衣装が、素材としてあるというのはイメージを与えてくれます。脚立を使ったりとか、三角形の動線を描くとか、衣装が導いてくれた豊かなものがあります」。その一方、公演前に、衣装と格闘中だと明かしてくれた。「第2の皮膚だから、うまくつきあえるようになりたい。衣装とつきあうというのは、(動きが制約される部分を)どう逆手にとるか。逆手にとっているうちに、衣装が溶けてくるのですね、そこまで、行きたいです」
Part 1が、一音一音の世界、肉体の鼓動が表出するといった“動”の世界だったとしたら、Part 2は、音と音が流麗につながる“静”の世界といえるかもしれない。加藤は、ペルトの音楽を、「静寂で、とてもシンプルな音を、本当に一つひとつの音を紡いでいくよう。大きな流れにハーモニーやメロディーがある」と解説する。両方の作曲家にいえることは、「音色と音楽がつくり出す世界観が本当に大きく、宇宙的な空間になる」とも。
■Part 2 加藤訓子×中村恩恵×高木由利子
中村にとって、ペルトは、「長い沈黙を経たあとに、自分の生まれた教会の信仰にもどって、とてもシンプルだが、すごく深い音楽を満たしている人」。シンプルで繰り返しの多い曲から、「日々レッスンするように、毎日の繰り返しなかで、何かが昇華されていき、螺旋階段のように、積み上がっていくか、降りていくのかわからないが、そういう感じ」のイメージをもっていたという。
舞台に、三角形が螺旋状に重なっているかのように折りたたまれている衣装が、イメージに重なる。それは、「132 5.ISSEY MIYAKE」の新型のNO.11」。衣装のために作られたものではなく、店頭で販売されている衣服と同じで、手も一切加えられていない。
三角形をモチーフにした平面状の衣装。それを手にとる。何かがはじまっていく高揚感。中村の動きは、高木の言葉を借りれば、「大地に立っているのに、この上もなくエレガント」。
“うつろう”という言葉が浮かんできた。 “生”が、エモーショナルにうつろう。ものがなしくも濃密な情感が、しだいに空間を満たしていく。
中村は、宗教的な繰り返しの曲のイメージから、あるおもいを抱いていた。「人々が、宗教というもので政治的に戦争したりしている。信じることでぶつかったりする。自分のやってきたことの繰り返しみたいなことに固着するが故に起こってくる大きな苦しみ。悲劇的な事件がたくさんあるが、そこから抜け出せない人や巻き込まれた人に対するレクエイムの形に、音楽が響いて聞こえるような演出にしたい」。平和的なメッセージにつながればいいとおもい創っていたという。踊りは、祈りにも通じる。クロ地に箔押しされたピンクゴールドの輝きが、そのおもいを一層きわだたせていた。
同企画のコンセプトは、音楽と多ジャンルの芸術とのコラボレーション。加藤は、踊り手を感じながら、また、踊り手は音を感じながら、そして、その空気を感じながら、高木がその一瞬を切り取り、その切り取られた”過去“に、踊り手はまた感応していく。
古代からの響きのようなマリンバの音。その中に、無機的なシャッター音とともに、高木がとらえた踊り手の肉体や表情。それは、現在と関係はしているものの、観る者にとっては、未知の映像となっている。カンディンスキーの抽象的な世界に、ホドラーが描く身体とリズム、それらが混在しているような、不思議な感覚が生まれてくる。
多くの要素を含んだ複雑なコラボレーションは、まさに実験。その上、演出家もいない。皆で、作りあげていったという。中村は、この企画について、「踊り手は、自分が踊っている姿を客観視できないもの。高木さんの写真が見えた時は、胸に迫るようなものがあるので、自分の姿なのだけど、身に迫ってくるようなものになり、それにまたフィードバックがおきるのが興味深い」と語る。また、黒田は、コラボレーションの意義を、次のように見いだしている。「まず自分がゼロのなることを求める。それは、自分の作品ではやらないことなんです。ゼロだった状態より、自分の身体が大きくなれるというか、人のいいもので満たされる。それは自分が望んでいたということがわかります」。コラボレーションだから生まれる制約のなかから、新たな発見、つまり、創造が生まれることは、出演者たちの認めるところだ。
コラボレーションは、出演者とサポートするチーム、それぞれのパートが、作品中で “的確に存在” していなければ成功しない。その上、静止している作品ではなく、パフォーマンスアート。だが、その動性ゆえに、表現者の鋭敏な感性が幾重にも呼応していく。また、「132 5.ISSEY MIYAKE」も衣装というよりは、一つの要素として存在していた。踊り手とみごとに “共演” する、この衣服のもつ可能性も見いだすことができた。
今回の公演は、コラボレーションを知覚する観客の息づかいさえも取り込んで、会場に充満する空間作品を生み出していた。勇敢な企画に拍手を送りたい。そしてなによりも、この企画に答えてあまりある、超一流の女性表現者たちが誇らしく思えたのは、私だけでないだろう。
Part 1の音楽は、ライヒ。「彼の音楽は、躍動的。根底にアフリカのリズムがあるので、パーカッションに適し、繰り返し続けられる強さがある」と、加藤。その奏でるマリンバの音は、聞く者の身体に振動を起こす。直截で強く、余韻はたおやかな音色。舞台下手には、2mはあると思われる脚立が置かれ、その上に高木がすわる。古代の森のなかにいるような空気感がただようなか、人間の生をまっすぐにみつめているような黒田の表現。ブルーの衣装をまとい、何かを求めているよう。床を打ちつける音、呼吸の音。時に、激しい動きが胸に迫ってくる。「訓子さんの音は、古代にあった音だと思います。その一音一音が蓄積されていって、オーバードライブする」
黒田は、演出上、高木を目撃者として設定。「作中に過去として切り取られて、命が封じ込められているものがある。それが、目撃され、証拠がここにあるという感覚は、身体にも響いてきますし、身体として投影されていて、いただくものがすごく多いですね」
黒田の衣装は、「DELTA」という名のついた、ブルーの生地にブルーの箔が押された新型の「132 5. ISSEY MIYAKE」。着用したときには、箔が散らばり、大きな三角形がいくつも現れる。この服からも、黒田は、イメージを広げていった。「三角形にたたまれた衣装が、素材としてあるというのはイメージを与えてくれます。脚立を使ったりとか、三角形の動線を描くとか、衣装が導いてくれた豊かなものがあります」。その一方、公演前に、衣装と格闘中だと明かしてくれた。「第2の皮膚だから、うまくつきあえるようになりたい。衣装とつきあうというのは、(動きが制約される部分を)どう逆手にとるか。逆手にとっているうちに、衣装が溶けてくるのですね、そこまで、行きたいです」
Part 1が、一音一音の世界、肉体の鼓動が表出するといった“動”の世界だったとしたら、Part 2は、音と音が流麗につながる“静”の世界といえるかもしれない。加藤は、ペルトの音楽を、「静寂で、とてもシンプルな音を、本当に一つひとつの音を紡いでいくよう。大きな流れにハーモニーやメロディーがある」と解説する。両方の作曲家にいえることは、「音色と音楽がつくり出す世界観が本当に大きく、宇宙的な空間になる」とも。
■Part 2 加藤訓子×中村恩恵×高木由利子
中村にとって、ペルトは、「長い沈黙を経たあとに、自分の生まれた教会の信仰にもどって、とてもシンプルだが、すごく深い音楽を満たしている人」。シンプルで繰り返しの多い曲から、「日々レッスンするように、毎日の繰り返しなかで、何かが昇華されていき、螺旋階段のように、積み上がっていくか、降りていくのかわからないが、そういう感じ」のイメージをもっていたという。
舞台に、三角形が螺旋状に重なっているかのように折りたたまれている衣装が、イメージに重なる。それは、「132 5.ISSEY MIYAKE」の新型のNO.11」。衣装のために作られたものではなく、店頭で販売されている衣服と同じで、手も一切加えられていない。
三角形をモチーフにした平面状の衣装。それを手にとる。何かがはじまっていく高揚感。中村の動きは、高木の言葉を借りれば、「大地に立っているのに、この上もなくエレガント」。
“うつろう”という言葉が浮かんできた。 “生”が、エモーショナルにうつろう。ものがなしくも濃密な情感が、しだいに空間を満たしていく。
中村は、宗教的な繰り返しの曲のイメージから、あるおもいを抱いていた。「人々が、宗教というもので政治的に戦争したりしている。信じることでぶつかったりする。自分のやってきたことの繰り返しみたいなことに固着するが故に起こってくる大きな苦しみ。悲劇的な事件がたくさんあるが、そこから抜け出せない人や巻き込まれた人に対するレクエイムの形に、音楽が響いて聞こえるような演出にしたい」。平和的なメッセージにつながればいいとおもい創っていたという。踊りは、祈りにも通じる。クロ地に箔押しされたピンクゴールドの輝きが、そのおもいを一層きわだたせていた。
同企画のコンセプトは、音楽と多ジャンルの芸術とのコラボレーション。加藤は、踊り手を感じながら、また、踊り手は音を感じながら、そして、その空気を感じながら、高木がその一瞬を切り取り、その切り取られた”過去“に、踊り手はまた感応していく。
古代からの響きのようなマリンバの音。その中に、無機的なシャッター音とともに、高木がとらえた踊り手の肉体や表情。それは、現在と関係はしているものの、観る者にとっては、未知の映像となっている。カンディンスキーの抽象的な世界に、ホドラーが描く身体とリズム、それらが混在しているような、不思議な感覚が生まれてくる。
多くの要素を含んだ複雑なコラボレーションは、まさに実験。その上、演出家もいない。皆で、作りあげていったという。中村は、この企画について、「踊り手は、自分が踊っている姿を客観視できないもの。高木さんの写真が見えた時は、胸に迫るようなものがあるので、自分の姿なのだけど、身に迫ってくるようなものになり、それにまたフィードバックがおきるのが興味深い」と語る。また、黒田は、コラボレーションの意義を、次のように見いだしている。「まず自分がゼロのなることを求める。それは、自分の作品ではやらないことなんです。ゼロだった状態より、自分の身体が大きくなれるというか、人のいいもので満たされる。それは自分が望んでいたということがわかります」。コラボレーションだから生まれる制約のなかから、新たな発見、つまり、創造が生まれることは、出演者たちの認めるところだ。
コラボレーションは、出演者とサポートするチーム、それぞれのパートが、作品中で “的確に存在” していなければ成功しない。その上、静止している作品ではなく、パフォーマンスアート。だが、その動性ゆえに、表現者の鋭敏な感性が幾重にも呼応していく。また、「132 5.ISSEY MIYAKE」も衣装というよりは、一つの要素として存在していた。踊り手とみごとに “共演” する、この衣服のもつ可能性も見いだすことができた。
今回の公演は、コラボレーションを知覚する観客の息づかいさえも取り込んで、会場に充満する空間作品を生み出していた。勇敢な企画に拍手を送りたい。そしてなによりも、この企画に答えてあまりある、超一流の女性表現者たちが誇らしく思えたのは、私だけでないだろう。