フランスの新聞『ル フィガロ』は、1826年に発刊されたフランスで最も歴史のある日刊紙だ。その新聞を発行するフィガロ社は、1980年女性を対象としたフリーマガジン『マダム フィガロ』を創刊した。『マダム フィガロ』創刊から10周年の年に、『マダム フィガロ ジャポン』がTBSブリタニカ社より、瀬古敦子編集長のもと創刊。
創刊号には、当時の仏『マダム フィガロ』のマリクレール・ポーウェル編集長の「『マダム フィガロ』は意思のあるところに道があるという格言のもと、ポジティブなイメージの雑誌であり、文章、写真、題材と何よりも質を重視する確かな価値のある雑誌である」とのメッセージと、見るからに意思ある知的なフランスの女性のポートレートが掲載されていた。
当時の世相を振り返ると、フランスでは1983年に「男女職業平等法」を制定、日本でも1986年「男女雇用機会均等法」が施行され、女性の社会進出が大きなテーマでもあった。ジョルジオ・アルマーニは、キャリアウーマンのためにスマートなソフトスーツを提案し、ダナ・キャランのパワースーツとともに絶大な指示を得ていた。『マダム フィガロ』もオピニオンリーダーとなった女性へ向けたライフスタイルを満載し、新しい時代の女性像を描き出した。
『フィガロジャポン』が創刊した1990年当時の日本の女性にとってパリはまだまだ遠い憧れの地だった。創刊号では、『地球の歩き方』にはない、ページをめくる度にパリの香りが漂うガイドブックが別冊付録に付いていた。微に入り細を穿ち徹底的に取材した旅企画の誕生は創刊当時から『フィガロジャポン』のDNAとなり、後に「その地に暮らしている人たちも欲しがる」と定評の特集になっていった。
創刊から1年もすると『フィガロジャポン』が放つパリの香りは読者に浸透していった。名前が知られるようになると、次の段階へのステップアップ、スタイルの完成期に入っていった。
1991年10月号より、マガジンハウス出身の蝦名芳弘氏が総編集長に就任した。創刊以来表紙は欧米人モデルと決まっていたが、10月号の表紙には男女の唇のアップの写真に「あの女(ひと)には勝ちたい。」という意味深長なコピーと「フィガロは変わります」というメッセージだけの大胆な作りに変わった。
8/11--蝦名編集長の大胆さに続く。