脚本家のダルトン・トランボ(Dalton Trumbo)は1905年12月9日生まれ。アメリカ合衆国・コロラド州出身。1976年9月10日逝去。
南カリフォルニア大学を卒業すると、一時は雑誌の記者や編集者を務めるものの、やがて脚本家としての道を歩むようになる。初めて映画の脚本を書いたのは、37年公開の『潜水艦SOS』で、40年には『恋愛手帖』でアカデミー脚本賞にノミネートされた。
その後も数々の映画を手掛けていたトランボだったが、冷戦時代に入るとアメリカ国内では共産主義排斥の運動が盛んになっていく。その標的として真っ先に狙われたのは、ハリウッドの俳優や製作スタッフ達だった。赤狩りを主導する下院非米活動委員会による取り締まりが行われる中、共産党員だったトランボを始めとする10人の映画関係者は、基本的人権を盾に証言や召還命令を拒否。これによって、彼らは48年に議会侮辱罪に問われてしまう。
禁固刑の実刑判決を受けたトランボは、その後、ハリウッドを離れることを余儀なくされる。しかし、彼はこれに屈することなく、メキシコに亡命した後も偽名を使って映画の脚本を書き続けた。こうして生まれた作品の一つが、53年に公開された『ローマの休日』だ。ハリウッドのお膝元を離れたローマのロケでは、赤狩りへの抗議運動に参加していたグレゴリー・ベックを主演俳優に、運動のリーダー的存在だったウィリアム・ワイラーを監督に起用。その他、赤狩りによって業界を追放されたスタッフがロケに集まり、撮影を手掛けることになった。そして、53年のアカデミー賞で、ローマの休日は最優秀原案賞に選ばれる。授賞式では壇上に立ったのは、トランボの親友だった脚本家のイアン・マクレラン・ハンター。彼の名前を借りなければ、かの名作がハリウッドの頂点に立つことが無かったというのは、何とも皮肉な話と言えるだろう。
その後は、56年にロバート・リッチの名義を借りて発表した『黒い牡牛』がアカデミー原案賞を受賞。60年公開の『栄光への脱出』で公式にハリウッドへと復帰すると、71年には自らが監督・脚本を手掛けた『ジョニーは戦場へ行った』を発表した。これは、第2次世界大戦が勃発した39年に発刊した自身の小説を映像化したもので、戦争によって五感も手足も失った男を主人公とすることにより、当時ベトナム戦争に参加していた政府を痛烈に批判する内容となっている。発表されるとたちまち話題となり、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリなど数々の賞を受賞した。
やがて、トロンボは73年公開の『ダラスの熱い日』で脚本を手掛けると、その3年後の76年に逝去。彼の死後にローマの休日による一連の裏事情が明らかになると、93年にはアカデミー原案賞が改めてトロンボに与えられている。