エールフランスの名は世界に数ある航空会社の中でも、一際粋でエレガントな輝きを放っている。それは恐らく、客室乗務員が文化とモードの国フランスの親善大使として位置づけられてきたことと無関係ではないだろう。女性客室乗務員のユニフォームはオートクチュールの国の誇りであり、 いつの時代も、その時代を映す鏡であった。
エールフランスが産声を上げたのは1933年のこと。旅客航空機の時代が本格化するのは戦後を待たねばならない。1945年、初の女性客室乗務員が採用された。軍や赤十字に所属する優秀な20代の女性達の中から選ばれた。当然、ユニフォームも軍服に近いスタイルだった。
飛行機に乗るなんて、まだごく少数の裕福層にしかできない贅沢であり、大冒険だった時代である。パリ―ニューヨーク間を飛ぶのに20時間。高級ホテル並みのサービスが提供された。飲み物や食事のサービスは男性の仕事で、女性乗務員の役割は、いかに客に安心感を与え、きめ細やかなお世話をするか。言わば、お母さんまたは看護婦のような存在であった。学歴、語学力はもちろんのこと、家柄、容姿も重視された。
エールフランスの日本就航は1952年秋のことである。ベイルート、カラチ、サイゴンで乗り継ぐ南回りの行路だった。当時の宣伝文句に、「パリ―東京間、わずか41時間10分、 乗り継ぎもわずか3回」とある。今とは比べ物にならないほど、長い旅だったのである。
54年になると、客室乗務員の仕事内容は見直され、女性の年齢制限は40歳に引き上げられ、安全管理の比重が大きくなってゆく。50年代と言えば、ユニフォームに最初の変化が見られた時代でもある。ベレーをかぶり、シャツのボタンを上まできっちり止めた厳格さはまだ軍服の面影を残しているものの、フェミナンな要素がしだいに加わってゆく。
当初は、ユニフォームは客室乗務員が半額で買い上げ、2年後にしか自分のものにならないという制度だった。無料で支給されるようになったのは、53年からのことである。
それでも「スチュワーデス」人気は高かった。エレガントな物腰、美しい笑顔と仕草、ウィットに富んだ会話や的確な応対は、人々の憧れの的だった。フランスという国の「機上の大使」であることを、彼女達は十分に自覚していたのだった。
2/6に続く。