大規模なファッションショーが開催される世界の主要都市の中でも、イタリアという国は独特だ。ビジネスとクリエイティビティの狭間でジレンマに陥り、模索を続けるブランドが多い他の都市とは違い、イタリアはいつも変わらずイタリアらしさを貫き通す。どんなに時代や取り巻く環境が変化しようとも、エレガントで華やかでエネルギッシュな姿勢を崩さない。美しさ、楽しさ、豊かさが人生の最優先事項であり、ファションやデザインは人生に“JOY”というスパイスを加える、必要不可欠で身近な存在なのだ。
そんなイタリアのファッション業界を長く牽引しているデザイナーの一人が、ルッセラ・ヤルディーニ(Rossella Jardini)。ボッテガ・ヴェネタ(Bottega Veneta)でデザイナーを経験した後、モスキーノ(Moschino)の創始者フランコ・モスキーノ(Franco Moschino)とともにクリエイティブディレクターを務め、彼が急逝後は一人でブランドを引き継いだ。約25年でモスキーノを去った後、自身の名を掲げたブランドをローンチし、昨シーズンから伊勢丹新宿店でも取り扱いが始まるなど、アジアでの販路も広げている。
ファッションスクールに通った経験はないという彼女が業界に足を踏み入れたきっかけから、モスキーノ時代の貴重な経験、ファッション業界の変遷について訊いた。
ーーファッション業界に入ったきっかけは何だったのですか?
ファッションは生活に密着しているもので、人生の全ての思い出がファッションとともに構成されています。着る物を自分で選びこだわり始めたのは5歳の時だから、もう半世紀以上前ね(笑)。イタリアの田舎街に生まれ育ったので、娯楽に溢れているわけでもなく、今ほど何でも手に入る時代ではなかったから、ただただ好きなファッションに集中していたの。
21歳の時に「アフターヌーン(After Noon)」という名のセレクトショップで働き始めたのが、この業界に入ったきっかけ。イッセイ・ミヤケ(Issey Miyake)など、アバンギャルドなブランドを取り扱うブティックだったわ。
それからいくつか小さなブランドでデザイナーやディレクターとして経験し、ボッテガ・ヴェネタの創始者ミケーレ・タッディ(Michele Taddei)とレンツォ・ゼンジアーロ(Renzo Zengiaro)と出会い、彼らの元でバッグやシューズなどのデザインを手掛けました。ある時、男友達を通じて知り合ったフランコ・モスキーノ(モスキーノの創始者)に声を掛けられ、モスキーノの世界へと足を踏み入れたのよ。
ーールッセラは彼の仕事のパートナーであると同時にミューズだったとも言われていますが、真相のところは?
さぁ、どうなのかしらね(笑)。彼は「君はモスキーノにはエレガント過ぎる」とよく言っていたのを覚えてる。近くにいて、彼に刺激を与える存在だったとは思うけれど、ミューズとは少し違うかもしれないわ。
ーー仕事のパートナーであり、戦友、同志といった関係だった彼を失った時の悲しみは計り知れません。その時既に世界に名の知れたブランドであったモスキーノを、彼が亡くなった後一人で引き継ぐのは重圧ではありませんでしたか?
お別れを言う心の準備もできないまま逝ってしまったから、私を含めブランドに関わる全ての人が深く悲しみ傷心した。けれど同時に、彼への強い忠誠心とスピリットが全員の中に芽生えたの。大きな家族のように感じていたし、ブランドや顧客のためというよりは、他でもなく彼のために一丸となってブランドを継承しようという結論で一致した。確かにプレッシャーもあったけれど、そんなものに怯える気持ちよりも「彼のために」という熱意があったから、とにかく一生懸命仕事をしたわ。
ーー「現代はファッションへの欲望や詩的な美しさを失いつつある」--デザイナー・ルッセラ・ヤルディーニ--2/2【INTERVIEW】に続く。