フランス王妃のマリー・アントワネット(Marie Antoinette)は1755年11月2日生まれ。神聖ローマ帝国・ウィーン出身。1793年10月16日逝去。
神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと、オーストリア女大公マリア・テレジアの間に11女として生まれる。14歳で後に皇帝ルイ16世となる、フランス皇太子のルイ・オーギュストと結婚し、以降はパリのヴェルサイユ宮殿で生活することに。74年にはルイ15世が崩御し、マリーはフランス王妃となった。
しかし、結婚当時まだ14歳と若かったマリーは、夫が性的不能だったこともあり、夜ごとに仮面舞踏会に出席するなど享楽的な生活を送るようになる。豪奢なドレスをまとい、高価な装飾物を買い求め、ブレゲに高級時計を発注したのもちょうどこの頃のことだった。宮殿にデザイナーのローズ・ベルタンを呼び寄せると、彼女は高く結い上げた髪型などの流行を生みだし、当時のファッションに影響を与えることになる。また、プチ・トリアノン離宮に田舎風の暮らしを再現するなど、マリーは宮殿での生活より自然への回帰を好む傾向があり、モスリンの田舎風ドレスなども好んで着こなしていた。
しかし一方で、当時のフランスは度重なる戦争のため財政が傾き、華やかな宮殿生活とは逆に、民は貧困に飢えていた。また、貴族やその夫人達をないがしろにしたため、宮殿内でマリーは浪費家な“オーストリア女”と非難されるようになる。
85年、ストラスブールの大司教の元に、ラ・モット伯爵夫人が訪れる。彼女は王妃の代理として宝石商からダイヤの首飾りを購入しに来たと言い、その代金の肩代わりを依頼した。大司教は王家とのつながりが持てると喜んで金を支払ったが、実はこのラ・モット伯爵夫人、実際には存在しない人物で大司教は首飾りを騙し取られてしまう。この詐欺が世間に広まると、当時困窮にあえいでいた市民は、むしろ被害者である王妃へと怒りを覚えた。高価な首飾りを購入出来るほど、王宮では贅沢な暮らしが許されているのか、と。
この首飾り事件をきっかけに、国内でのマリー・アントワネットの人気は地に落ちることになる。やがて、89年7月14日のバスティーユ監獄襲撃事件を皮切りに、フランスでは革命が勃発。国王一家はオーストリアへの亡命を企てたものの、ヴァレンヌで市民に発見されると、パリへと連れ戻された。国を見捨てようとした王家に対する慈悲はなく、93年10月、ついにマリー・アントワネットはギロチン台へと登る。享年37歳の若さだった。
悲劇の末路を辿ったが、その享楽華美な生活・ロココ調を代表するスタイルは多くのクリエーターにインスピレーションを与えている。2006年にはソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)監督の「マリー・アントワネット」、12年にはブノワ・ジャコー(Benoit Jacquot)監督の「マリー・アントワネットに別れを告げて」などマリー・アントワネットの生涯を描いた映画が制作されている。