11月3日は手塚治虫の誕生日です

2014.11.03

漫画家の手塚治虫は1928年11月3日生まれ。大阪府豊中市出身。1989年2月9日逝去。

3人兄弟の長男に生まれ、子供の頃に好きだったのは漫画と昆虫採集。小学校に進学し、9歳で頭を坊主に丸めると、そんな自分の姿を主人公に生まれて初めての漫画『ピンピン生チャン』を描く。その後も、学生時代には漫画や動物同好会の会誌を描き続け、45年に大阪大学付属医学専門部に進学すると、翌年には4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を少国民新聞に寄稿。これが手塚治虫のデビュー作となった。

47年に長編マンガ『新宝島』を刊行すると、作品は40万部を販売する大ヒットとなる。これを機に上京した手塚は、50年から雑誌『漫画少年』で『ジャングル大帝』を連載。大阪大学を卒業すると、格的に活動の拠点を東京に移し、53年には椎名町のトキワ荘へと引っ越した。その後、このアパートには数多くの漫画家が住居を構えることになり、後に“マンガ荘”と呼ばれるようになる。

54年には関西長者番付画家の部でトップとなるなど、この頃、手塚は当時を代表する漫画家の1人にまで成長している。中でも、当時の代表作となるのが、53年から『少女クラブ』で連載をスタートした『リボンの騎士』だ。これは、男装の王女が悪と戦うという、当時の少女漫画としては斬新な内容となっており、55年にはこれを原作とした連続ドラマがラジオ東京で放送されている。

一方で、52年には雑誌『少年』で『鉄腕アトム』の連載が始まった。こちらも累計で1億冊を売り上げる大ヒットとなり、63年には国産初のアニメとしてテレビ放映を開始。平均視聴率が30%を超える人気となり、やがてワールドワイドに放映されると、手塚の名前を世界に知らせるきっかけとなる。

また、61年に手塚治虫プロダクション動画部を設立すると、翌年には虫プロダクションと改名。65年には日本初のカラーアニメ番組『ジャングル大帝』を製作するなど、日本有数のアニメスタジオへと成長する。手塚もこの時期、アニメの製作に没頭していたが、71年に会社の方針について社内で揉めたことから社長を辞職。やがて資金繰りが悪化し、73年に虫プロダクションは倒産している。手塚自身もスランプに落ち込み、もはや彼の時代は終わったと世間はみなしていた。

しかし、73年に『週刊少年チャンピオン』で『ブラックジャック』の連載をスタートすると、これがじわじわと人気を集め、やがて同誌を代表する作品の一つとなる。その後も、手塚は『三つ目がとおる』や『火の鳥』などの作品を次々と発表し、漫画界を代表する存在へと返り咲いた。

晩年になっても手塚は、『陽だまりの樹』で小学館漫画賞を受賞するなどの活躍を見せていた。88年にはアニメイベントのために中国を訪れるが、この途上で手塚は病に倒れる。この時、彼の身体は胃がんに侵されており、翌年病院で息を引き取った。

私生活では59年に岡田悦子と結婚。64年に長女るみ子を儲けている。
HEW
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