今、パリのファッション業界を牽引しているのは日本人デザイナーではないかと過信してしまうほど、その活躍が目覚ましい。
コム デ ギャルソン(COMME des GARCONS)、ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)、イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)などベテラン陣の勢いもそのままに、サカイ(Sacai)やカラー(kolor)など中堅デザイナーたちによる大胆で新しい見せ方はクリエーションとビジネスのバランスも絶妙で、更なる飛躍に期待がかかる。次世代の日本人デザイナーにも注目が集まる中、着実に力をつけている新鋭ブランドが、松重健太によるKenta Matsushigeだ。
エスモード大阪校在籍時に神戸ファッションコンテストを受賞し、パリのオートクチュール協会が経営するサンディカ・パリクチュール校へ。ジバンシィ(GIVENCHY)、ディオール(Dior)、ニコラ アンドレア タラリス(Nicholas Andreas Taralis)など名だたるメゾンでスタージュを経験後、フリーのデザイナーとして活動していた2014年にイエール国際モード&写真フェスティバルでグランプリを受賞。その後、自身のブランド、Kenta Matsushigeを立ち上げ、シャネル(CHANEL)傘下のオートクチュール工房協力のもと、15SSコレクションで華々しいデューを飾った。
弱冠27歳、「インタビューを受けるのは未だに緊張します」とあどけない表情で控えめな印象だが、内に秘める情熱は生半可なものではない。そんな松重にデザイナーになった経緯やパリをベースに活動する理由、見据える未来について訊く。
松重健太さん
ーー幼少期から洋服に興味があったのですか?
いいえ、正直小学生の時はダサかったですね(笑)。山口県の田舎で育ったので、何でも手に入るような環境ではありませんでした。中学生になった頃、ZOZOTOWNなどが普及したおかげで選択肢が増え、徐々に洋服に興味を持ち始めました。高校は電車に乗って少し離れた学校に通い始め、通学途中に立ち寄ったセレクトショップでインポートブランドを見て衝撃を受けたんです。本格的にファッションに目覚めたのはその頃。アルバイトをしてはクリスヴァンアッシュ(KRISVANASSCHE)やメゾン マルジェラ(Martin Margiela)などを買っていましたね。
彼らの服を着ることで、よりファッションに入り込み、 “服”をやってみたいと強く思いました。それまで何をやっても続かなった僕が、真剣にやりたいと思った唯一のものでした。
ジバンシィと言っても分からないほど、ファッションには無知な両親なので、服飾の専門学校へ行くことは反対もされましたが、説得の甲斐あってエスモード大阪校へ入学できました。
ーー専門学生時代から、パリなど海外で活動することを意識していましたか?
強い憧れはありました。モダンでありながらも伝統を重んじる姿勢が洋服に表れているパリやベルギーのブランドに心惹かれたのは、僕自身懐古主義なところがあるからだと思います。パリで服作りを学べるチャンスを与えられる神戸ファッションコンテストに応募したら運良く受賞することができ、20歳の時に憧れだったパリに来ることができました。
ーーパリに来てから多くの大手メゾンで経験を積み、得たものも多かったのではないでしょうか?
確かに、サンディカ校での授業や優秀なデザイナーのアトリエでの経験は貴重なものです。中でも、僕にとって最も大きな学びは“立体裁断”ですね。歴史的に見ても、やはり西洋の方がその技術は断然進んでいます。ブランドの核である構築的なデザインは、パリで培った立体裁断の技術が軸となっています。
Kenta Matsushige 16-17AWコレクション
ーー学びの多いパリでの生活がスタート。イエール国際モード&写真フェスティバルでのグランプリ受賞後、シャネル傘下のオートクチュール工房協力のもとブランド立ち上げなど、トントン拍子で進んでいますね。初めての海外生活で言葉や文化の壁、苦労しませんでしたか?
文化や歴史が混在する街は刺激的。もともと懐古な雰囲気が好きだからでしょうか、カルチャーショックなども特になくすんなりパリでの生活に馴染めました。フランス語は渡仏後4ヶ月間語学学校へ通い、自宅ではフランス映画を観ながら学習しましたが、苦労したという実感はないですね。
しかし渡仏してから痛感したのは、モードに関する知識は絶対に敵わないということ。ディオールでインターンをしていた頃、12歳くらいの女の子がアトリエに見学に来ていたのを見かけました。質問も大人さながらの専門的な内容で、とても驚きました。それだけモードが身近にある文化なので、感性も鋭敏に養われるはずです。知識は敵わないと気付き始めてから、憧れであるヨーロッパの服作りを真似するだけではなく、日本に立ち返ってみようと思ったんです。
後編に続く。
コム デ ギャルソン(COMME des GARCONS)、ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)、イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)などベテラン陣の勢いもそのままに、サカイ(Sacai)やカラー(kolor)など中堅デザイナーたちによる大胆で新しい見せ方はクリエーションとビジネスのバランスも絶妙で、更なる飛躍に期待がかかる。次世代の日本人デザイナーにも注目が集まる中、着実に力をつけている新鋭ブランドが、松重健太によるKenta Matsushigeだ。
エスモード大阪校在籍時に神戸ファッションコンテストを受賞し、パリのオートクチュール協会が経営するサンディカ・パリクチュール校へ。ジバンシィ(GIVENCHY)、ディオール(Dior)、ニコラ アンドレア タラリス(Nicholas Andreas Taralis)など名だたるメゾンでスタージュを経験後、フリーのデザイナーとして活動していた2014年にイエール国際モード&写真フェスティバルでグランプリを受賞。その後、自身のブランド、Kenta Matsushigeを立ち上げ、シャネル(CHANEL)傘下のオートクチュール工房協力のもと、15SSコレクションで華々しいデューを飾った。
弱冠27歳、「インタビューを受けるのは未だに緊張します」とあどけない表情で控えめな印象だが、内に秘める情熱は生半可なものではない。そんな松重にデザイナーになった経緯やパリをベースに活動する理由、見据える未来について訊く。
松重健太さん
ーー幼少期から洋服に興味があったのですか?
いいえ、正直小学生の時はダサかったですね(笑)。山口県の田舎で育ったので、何でも手に入るような環境ではありませんでした。中学生になった頃、ZOZOTOWNなどが普及したおかげで選択肢が増え、徐々に洋服に興味を持ち始めました。高校は電車に乗って少し離れた学校に通い始め、通学途中に立ち寄ったセレクトショップでインポートブランドを見て衝撃を受けたんです。本格的にファッションに目覚めたのはその頃。アルバイトをしてはクリスヴァンアッシュ(KRISVANASSCHE)やメゾン マルジェラ(Martin Margiela)などを買っていましたね。
彼らの服を着ることで、よりファッションに入り込み、 “服”をやってみたいと強く思いました。それまで何をやっても続かなった僕が、真剣にやりたいと思った唯一のものでした。
ジバンシィと言っても分からないほど、ファッションには無知な両親なので、服飾の専門学校へ行くことは反対もされましたが、説得の甲斐あってエスモード大阪校へ入学できました。
ーー専門学生時代から、パリなど海外で活動することを意識していましたか?
強い憧れはありました。モダンでありながらも伝統を重んじる姿勢が洋服に表れているパリやベルギーのブランドに心惹かれたのは、僕自身懐古主義なところがあるからだと思います。パリで服作りを学べるチャンスを与えられる神戸ファッションコンテストに応募したら運良く受賞することができ、20歳の時に憧れだったパリに来ることができました。
ーーパリに来てから多くの大手メゾンで経験を積み、得たものも多かったのではないでしょうか?
確かに、サンディカ校での授業や優秀なデザイナーのアトリエでの経験は貴重なものです。中でも、僕にとって最も大きな学びは“立体裁断”ですね。歴史的に見ても、やはり西洋の方がその技術は断然進んでいます。ブランドの核である構築的なデザインは、パリで培った立体裁断の技術が軸となっています。
Kenta Matsushige 16-17AWコレクション
ーー学びの多いパリでの生活がスタート。イエール国際モード&写真フェスティバルでのグランプリ受賞後、シャネル傘下のオートクチュール工房協力のもとブランド立ち上げなど、トントン拍子で進んでいますね。初めての海外生活で言葉や文化の壁、苦労しませんでしたか?
文化や歴史が混在する街は刺激的。もともと懐古な雰囲気が好きだからでしょうか、カルチャーショックなども特になくすんなりパリでの生活に馴染めました。フランス語は渡仏後4ヶ月間語学学校へ通い、自宅ではフランス映画を観ながら学習しましたが、苦労したという実感はないですね。
しかし渡仏してから痛感したのは、モードに関する知識は絶対に敵わないということ。ディオールでインターンをしていた頃、12歳くらいの女の子がアトリエに見学に来ていたのを見かけました。質問も大人さながらの専門的な内容で、とても驚きました。それだけモードが身近にある文化なので、感性も鋭敏に養われるはずです。知識は敵わないと気付き始めてから、憧れであるヨーロッパの服作りを真似するだけではなく、日本に立ち返ってみようと思ったんです。
後編に続く。