野宮真貴が語るピチカート・ファイヴの普遍的な魅力【interview】

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2019.11.06

ピチカート・ファイヴの日本コロムビア時代の楽曲から、小西康陽監修・選曲による16枚組の7インチ・ボックスと、2枚組CD『THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001』が11月にリリースされる。いわゆる“渋谷系”を牽引する存在であり、その代表格とも言えるピチカート・ファイヴは、今も海外からの根強い人気を誇るだけでなく、後続のミュージシャンたちへ影響を与え続けている。

今回はその3代目シンガーとして1990年から解散まで、10年以上に渡って小西康陽と共に活動してきた野宮真貴にインタビューを敢行。当時を振り返りつつ、今の視点で渋谷系、そしてピチカート・ファイヴについて語ってもらった。




――解散からおよそ20年ほど経ちますが、このタイミングで改めて振り返って、野宮さんのキャリアにとってピチカート・ファイヴでの活動はどのような位置づけになりますか?


自分のシンガーとしてのキャリアの中でも、一番忙しくて、でも同時にとても充実していた時期でした。私は小さい頃からお洒落をすることと、歌うことが好きでシンガーになったんですけど、ピチカートでその両方を叶えることができました。しかも、日本を飛び出て海外へ進出したりと、自分の想定を遥かに超えたものになりました。


――野宮さんは解散後も積極的にピチカート・ファイヴの楽曲を歌っていますが、改めて思い入れのある楽曲を挙げるとしたら?

やっぱり1曲選ぶとしたら『東京は夜の七時』になると思います。リオのパラリンピック(2016年)閉会式でも歌われたっていう意味でも、東京を代表する曲、そして海外でも認知してもらっている曲ということになるのかなと。私も小西さんもとても大事にしている曲で、「こんな曲は他にはない」ってピチカートで歌っていた当時から思っていましたし、今でもその印象は変わりません。オリジナリティーの高い、ピチカートならではの曲だと思います。

――「東京は夜の七時」は昨年、新Ver.も発表されましたよね。

はい。あれは解散から17年経って初めて小西さんと一緒にレコーディングした曲になるんです。ここ5年ほど「野宮真貴、渋谷系を歌う」と題して、CDを出したりライブをしているんですけど、最初はその活動の一環で『東京は夜の七時』をリミックスしてほしいとお願いしたんです。そうしたら小西さんが「やってみたいアイデアがある」って。それで小西さんのプロデュースで、少林兄弟というバンドと一緒にレコーディングすることになったんです。それが、最新の『東京は夜の七時』ロカビリー・バージョンです。

最初はその1曲だけというお話だったんですけど、小西さんが、「DJでかけたいからアナログ7インチも作りたい」ということで話が進んで、「じゃあ、カップリングも必要だよね」となり、『Happy Sad』も新たに録り直して、7インチ・シングルとして昨年リリースしました。

――ピチカート・ファイヴ解散から20年ほどの年月が経ちましたが、ご自身が受ける楽曲のイメージは当時から変化しましたか?

ピチカートの曲はいつまで経っても懐メロにはならなくて、今でも新鮮な気持ちで聴くことができるんです。年齢を重ねたことで、新しい発見やより深く味わえるようになったとも言えますけど、これほど古びないメロディと歌詞はないと思っていて。あらためて小西さんの楽曲の素晴らしさを感じています。

嬉しかったのは、小西さんの楽曲解説に、「スウィート・ソウル・レヴューを今回スタジオであらためて聴き直してみたとき、野宮真貴さんのヴォーカルの素晴らしさに気づいて感動しました」と書かれていたこと。数十年越しに褒められました(笑)。

――野宮さんご自身からみて、ピチカート・ファイヴの独自性というのはどういうところにあると思いますか?

ピチカート・ファイヴの独自性は、音楽だけでなくヴィジュアルやアートワークに至るまでトータルで音楽作品を作るという強いこだわりがあったことでしょうか。その作品に世界中の音楽好きが共鳴したんだと思います。当時は世界で一番カッコいいことをやっているという自負もありましたし。海外では「東洋のバービードール」と表現されたこともありましたが、小西さんは世界水準のアイコニックなバンドあることも意識していたと思いますね。

だからこそ、海外でも多くの方が聴いてくれたり楽しんでくれたりしたのかなって思います。

――現在、渋谷系の再評価の流れも強く感じますが、野宮さん自身はそういった現象について実感されることがありますか?

私のライブには親子で来てくれる方も多くて、そういった若い世代にも新鮮に響いてるのかなと思いますね。それこそ若いミュージシャンの方でも、渋谷系に影響を受けたという方もどんどん出てきているみたいですし。とても嬉しいことですよね。やっぱり、曲がいいということが大きいんだと思います。音色は時代で流行りがありますけど、メロディとアレンジという核の部分を大事にしているからこそ、普遍的な魅力を放っているのだと思います。

――渋谷系、そしてピチカート・ファイヴは海外からの人気も未だに健在ですよね。

そうですね。今回の7インチ・ボックス、ベスト・アルバムのリリースを発表したときも、私のSNSに海外からのリアクションをたくさん頂いて。この間も北京でライブをしてきたんですけど、ありがたいことに今でも海外からライヴのオファーも多くて。全世界配信もスタートするので、これまで日本盤が手に入らなかった海外のファンにとっては、ようやく聴くことができる曲もあるわけですから、それはとても大きな意味がありますよね。

――90年代当時、海外で活動していて何か印象に残っている出来事やエピソードはありますか?

一番感動したのは、私も小西さんも尊敬しているバート・バカラック氏とお話ができたことです。ピチカートでは彼の『Me Japanese Boy』という曲をカバーしているんですけど、LAのラジオに出演した際にその曲をかけてもらったんです。それをご本人が聴いてくださっていて、レコード会社に電話を頂いて。「バート・バカラックさんとお電話が繋がっています」「えー!? 」みたいな(笑)。電話をスピーカーにして、みんなで聞いたんですけど、「『Me Japanese Boy』をカバーしてくれてありがとう」っておっしゃって。電話越しにピアノで披露してくれたんです。涙がでるほど嬉しかった。こんなことが起こるんだって。それからは彼が日本に来るたびにご挨拶させてもらうようになりましたけど、あの時の感動は忘れません。

Spincoaster 保坂
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