プレスの仕事は、プリントメディアとのお付き合いが大半です。エディトリアルストーリーにガーメントを貸し出すことから、タイアップ特集を組んでもらう、広告を出稿する、自社でストーリーを撮影してそのまま入稿するなど、多岐に渡る関わり方をしています。
様々なアクターが関わり合いながら作られていくページは、素晴らしい結果を生むこともありますが、カメラマン、スタイリスト、編集者、ブランドプレスなどの感覚が違うことによる衝突も絶えません。「ファッションは理想像と感覚」の世界なので、そこには論理的な説明はつけられません。衝突した場合は、平行線のままになることがほとんどです。
1枚の写真が、掲載される媒体“らしくない”ためにトリミングされることや、ブランドのイメージ“らしくない”ために切り落とされること、様々な経済的な“兼ね合い”から再撮影になることもたくさんあります。そこでは写真の“出来の良さ”は優先されません。個人的には、「このショット、最高なのに!」というものがバサバサと切られて行きます。
そんなことを繰り返し見ていると、ファッションのプリントメディアではページをめくるたびに、「イメージのせめぎ合い」と「葛藤」、「格闘した後のざらついた世界感」を特に感じるようになってしまいました。その「葛藤」をブランドイメージにまで昇華したアメリカ版ヴォーグはコミカルであっぱれですが、他の媒体でそれが見えてしまうと、中途半端で何だかゲンナリしてしまいます。
それに対して、インディペンデントな一部メディアは強いディレクションの下に、「再良のイメージ」と「情報」を選び取っている印象を受けます。それらの媒体では、ページをめくるたびにドキドキすることが多いのです。
そして不思議と、「ブランドイメージがそこまでかけ離れない」という意味で、プレスの我々にとってもクオリティーが高く、クリーンで良いページが多いのです。メディアの強いディレクションがありながら、ブランドイメージが崩壊しない、というのは矛盾しているように思いますが、最終的にはブランドに迎合することなく奇麗なページが出来上がっているという印象です。
海外誌では最近「Many of Them」が気になりますし、国内では「Too Much Magazine」が面白い誌面作りをしているように思います。
どちらにせよ、様々な兼ね合いから、膨大な数の素晴らしいショットが失われているのが現状です。それこそがメディアだ、と言われてしまえばそれまでなのですが…。
編集部のエビゾーと新しいプリントメディアができないものか…と現在模索中なのですが、ビジュアルについては「失われたショットを求めて」というテーマで作っても面白いかもしれません。
埋もれている、あるいは捨てられてしまった、素晴らしいショットを求めて…。