1997年5月号『エル・ジャポン』の表紙には「エルがかわりました!」と、高らかに宣言する言葉が記されていた。
本を開くと、Dear Readers From Editorのページがあり、就任したばかりの森明子編集長は「今日をいきいきと過ごし、明日を楽しく生きるために、ポジティブで自由な発想をし、人と人とのコミュニケーションを大切にする」そんな女性達に必要な情報を、世界各地から、ヴィヴィッドな視点で編集しますと、まだ見ぬ読者にメッセージを送っていた。
それまでの『エル・ジャポン』(タイムアシェットジャパン社になってから)は、良くも悪くも仏版をお手本にしたフレンチ・テイストを前面に打ち出すことで、一定の評価を得ていた。ただ、本国のアシェット社は、1985年の米版『ELLE』成功から進めてきた世界戦略の見直しは延々と続き、『エル・ジャポン』も更なる飛躍を狙う秘策を必要としていた。
そこで、当時の石橋正代社長始め仏本社のインターナショナルのディレクターが白羽の矢を立てたのが森明子だった。
「フランスのディレクターに、編集長には何を求めるかと率直に訊ねると、まずはビジネスで成功すること、と言われました。それに対して、私が編集長になったら、これまでのやり方をまったく変えちゃいますよ!エルではタブーとされたことをやると思います。エルを脱皮させる覚悟とその了解を取り付けて、編集長を引き受けることになりました」と、森編集長はいう。
創刊号には、大胆にもラグジュアリーブランドの双璧、Hermes vs. Chanel と対比することでブランドの違いを際立たせる特集を組み、オートクチュール・コレクション速報を大きく取り上げ、パリブランド・ガイドブックを付録に付けた。時代はグッチにトム・フォードが就任し、クリエーティブディレクターというポジションを知らしめた頃。他のメゾンも続々とデザイナーが代わっていった。
「私が編集長になった頃は、モード界も大きく変化した時代でした。ディオールにはジョン・ガリアーノ、ジバンシィにはアレキサンダー・マックィーンがデザイナーとして就任しクリエーションを競い、ルイ・ヴィトンのプレタが始まりマーク・ジェイコブスが抜擢された。バレンシアガに就任したニコラ・ゲスキエールは若者にも人気を博していました。業界がダイナミックに動き、ブランドビジネスの新しい展開が始まった時期でもありましたから、モード誌として、エルはいち早くその熱気を伝えようとしました。そうして、パリのフレンドリーなブランドからオートクチュールまで、情報量を増やすことと、奥行きを持たせることで、日本女子の端から端までカバーしようと思いました」
誰も想像しなかった新しい『エル・ジャポン』は、こうしてスタートした。
(6/12に続く。より特色を増す森『エル・ジャポン』。)