仏版Numeroのバベット・ジアン編集長と初めて会ったのは、田中杏子が編集長を引き受ける決心をして間もないコレクションの期間中だった。
「あなたは誰?編集長が決まったなんて聞いてないし、翻訳版を出すというから契約書にサインしたのよ!」と、大層な剣幕だった。何か行き違いがあるのではと、バベットと親しいアンテプリマのクリエーティブディレクター荻野いづみに相談し、彼女の仲立ちでランチをすることになった。
そこでも、バベットは「私が作ったNumeroは、誰にも触らせない!!!!」の一点張り。日本でも仏版Numeroは海外版のモード誌の中ではよく売れていた。「翻訳するだけのNumeroには、私は何の興味もない!それに、翻訳版を出したらあなたの仏版は売れなくなるわよ!!」と反論したと田中編集長。Yesという日本人は多いが、No ! といえる日本人に対して興味を持ったのか、バベットは初めて心を開いたという。
編集的なスタンスは、ヴォーグ仕込みでいくことにした。それは、決してリフト(転載)しないで、オリジナルを貫くことだ。一旦仏版をリフトすると、限りなく翻訳ものに近づき、世界では2流、3流の雑誌になっていくことをよく知っていたからだ。最初は、バベットとの軋轢を避けるために、リフトはしないが、フォトグラファーなどのスタッフィングは相談することにした。
いくつもの問題をクリアーして2007年2月、『ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)』は創刊した。
モード誌というのはどこかで読者を突き放し、それでもついて来る人だけが買ってくれればいい、というドSな部分がある。そこに読者が面白みを感じてくれれば成立するのだが、フレンドリーな要素が少しもない内は部数に恵まれることはない。広告主も、エッジの利いたモード誌とばかり親密になるわけもない。
2008年のリーマンショック以降、どこの出版社も経費を度外視する編集方針の見直しを迫られるようになった。この頃は、どの企業も先行きの見通しが立たず、暗中模索の時代に入った。創刊から1年半ほど経った頃のことだ。『ヌメロ・トウキョウ』も経費の削減を言い渡された。創刊から、数字を気にせずやってきたので当然のことと、あらゆる経費を見直していった。
2009年秋頃から、「日本の読者寄りの編集にシフトしていった」と田中編集長。モデルも日本人を起用するようになり、メインのファッションは編集長自らスタイリングするようになった。その結果、丁寧な作りの雑誌と認められ、クライアントの評価も上がり、広告は昨年対比超えを毎年記録した。
雑誌と田中編集長の関係について訊ねると「ヌメロ・トウキョウ=田中杏子だと思う。今はまだ私以外にこの本を作れる人はいないと思うし、会社が休刊すると言わない限り、また他誌からお声が掛かったとしても、いや掛けられることはないと思うが……きっとこのまま編集長としてヌメロ・トウキョウを作り続けていくんでしょうね」と、語る。
日本では、編集者が前面に出てくる雑誌は少ない。○○誌の○○さんと言われても、○○さんの○○誌とはなかなかいかない。編集長が変わっても、何も無かったように○○誌は出版され続ける。
田中杏子無しの『ヌメロ・トウキョウ』は存在しないに等しいのだ。
モード界で田中杏子は、Paris VOGUEの元編集長、カリーヌ・ロワトフェルドに例えられることがある。スタイリストから編集長になったキャリアや、ファッションアイコンとしてのカリスマ性などの共通項があるからに違いない。
9/12に続く。『ハーパーズ バザー』を紐解く。