ライセンスマガジンの醍醐味は、本国版を解釈していかに日本の読者に支持されるコンテンツを編み出すかというところにある。
蝦名総編集長の最初の仕事は、表紙のイメージを変え、キャッチーなコピーを用いるという大ナタを振るい『フィガロジャポン』を刷新させることにあった。この大ナタがその後の『フィガロジャポン』スタイルを決定づけることになったのだ。
1992年から93年の表紙を見るとイメージ中心の写真とカタログ的な写真が内容によって使い分けられている。雑誌の顔と言える表紙が、二つのスタイルを持つ雑誌は世界中どこを探しても見当たらない。その大胆さが、かえって印象づける結果となったのだ。「まるく痩せる!」「美的に散らかす部屋づくり。」など逆説のキャッチコピーは、書店に並んだとき、否が応でも目に飛び込んでくる。
つかみはOK!というところだ。2種類の表紙を「パリシックなスタイル」という大きな串で串刺しにし、機能させたのが蝦名総編集長流だ。
『フィガロジャポン』のイメージが定着すると、94年にはもう一つの看板となる「新しい旅の提案」が始まり、年間12冊のうち8冊でパリ、ロンドン、ニューヨーク、スペイン、バリ島、イタリアを特集した。バブル崩壊から景気が回復し、消費者の意識がまた海外へと向かいつつある時期に向けたタイムリーな仕掛けだ。ただ、既に何度か海外へ行ったことのある読者を楽しませるには、新しい切り口の旅行が必要で、馴染みのない土地への誘いや2・3度訪れた場所では目先を変えた過ごし方を提案した。編集者には第6感が必要と言われるが、風が吹き始める前に時代の風向きを読む力が雑誌の勢いにつながる時代だった。
そうして変革の年となる95年がやってきた。パリ在住のジャーナリスト村上香住子氏による「Le Journal in Time パリ毎日便」が95年1月号(242回の連載は2005年9月20日まで続いた)からスタート。セレブとの交友関係、愛猫とのエピソードなどディープなパリ情報が1ページのコラムに綴られ、村上氏が日本に帰国するまで長年読者に愛され続けた。
さらに、95年5月5日号より、毎月5日と20日発売の隔週刊誌となった。第3次ブランドブームの上昇気流に乗り、ブランド名が表紙に堂々と登場した。ブランド名は部数を左右すると判断されてのことだろう。
当時モード界では、デザイナー以上の権限を持つクリエーティブディレクターという新しいポジションについたトム・フォードの名前こそ伏せられていたが、60’sをイメージしたコレクションは「グッチ」がモード・ブランドへと変身をとげたと話題となり、結果モード界の活性化に繋がったのだ。
また、その頃はインターネットが一般に普及し始め、情報にスピード感が求められるようになった時期でもある。隔週刊化はそのスピード感を雑誌に取り入れた『フィガロ ジャポン』の結果だったと言われている。
9/11--石川、塚本時代へに続く。