画家の藤田嗣治は1886年11月27日生まれ。東京出身。1968年1月29日逝去。洗礼名はレオナール・フジタ。
陸軍軍医を父に持ち、その上司だった森鴎外の助言もあって東京美術学校西洋画科に進学。10年に卒業すると鴇田登美子と結婚するが、間もなく彼女を置いて単身パリに留学する。その後は、芸術家が集まるモンパルナスにアトリエを構えると、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)やアメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)などの画家と交流しながら、独自の作風を追及していった。
22年に藤田は美術展覧会サロン・ドートンヌに裸婦画を出品する。その絵は面相筆と墨によって細い輪郭線が描かれ、何よりも描かれた女性の光沢のある肌が審査員から絶賛された。この時、藤田が出品した作品6点はすべて入賞しており、それ以降、藤田の描く裸婦画は“乳白色の肌”として高い評価を受けることになる。25年にはフランス政府から、当時のパリを代表する画家としてレジオン・ドヌール勲章を贈られた。
29年には日本に帰国して各地で展覧会を開催。大成功を収めるが、一方で日本画壇からの反応は極めて冷ややかなものだった。これは、藤田が結婚と離婚を繰り返し、パーティーでの奇行からフーフー(お調子者)と呼ばれたためと言われているが、パリで成功していた藤田への嫉妬も少なからずあったかもしれない。また、世界恐慌にともなう不況により、パリでも今までのように作品が売れなくなったことから、藤田は3人目の妻リュシー・バドゥと別れ、南アメリカへと写生の旅に向かう。これにより、藤田の作風は徐々に色彩豊かなものへと変化していった。
30年代に日本へと帰国した藤田は、5人目の妻となる君代と結婚。以降は日本を拠点に活動するようになる。やがて、39年に第2次世界大戦がはじまると、日本軍の指示によって従軍し、数々の戦争画を制作していった。43年には上野美術館で開催された「決戦美術展覧会」で『アッツ島玉砕』を発表。この絵を一目見ようと、美術館には連日多くの人が詰めかけている。
しかし、終戦後の藤田を待ち受けていたのは、戦争協力者としての激しい批判だった。国賊とまで呼ばれた藤田にとって、もはや日本に居場所がなく、50年にパリへと移住。フランス国籍を取得すると、終生をこの地で過ごすことになった。
ラフ・シモンズ(Raf Simons)による「ジル・サンダー(JIL SANDER)10SSメンズコレクションは藤田がテーマ。彼のトレードマークである眼鏡とマッシュルームカットのモデルが登場。プリントのモチーフにも藤田を彷彿とさせるイラストが描かれた。