“ファッション”とは、一体何を指し示す言葉なのか。この答えは十人十色、いや、百人百様だろう。これまでの“ファッション”これからの“ファッション”の世界に生きる人達に、“ファッションって何だろう?”とシンプルな問いを投げ掛けてみたい。
今回、この問いに答えるのは、デザイナー串野真也。1982年広島県因島に生まれる。京都芸術デザイン専門学校ファッションデザイン科卒業後、イタリア「Istituto MARANGONI」のミラノ校、ファッションデザインマスターコースにてディプロマを取得。帰国後、2007年「JILA LEATHER GOODS AWARD 2007」でグランプリを受賞したことをきっかけに、革を中心とした靴や鞄などを展開するブランド「マサヤクシノ(Masaya Kushino)」をスタート。現在京都近代美術館開催中の「日本ファッション:不連続の連続」に西陣織の老舗・細尾のテキスタイルを取り入れた作品を出展中。14年9月からはニューヨークのブルックリンミュージアムで開催される「Killer Heels」への出品が予定されている。作品を通じて、時を越えた普遍的な美を表現する串野にとっての“ファッション”とは何かを尋ねてみた。
――初めて“ファッション”を意識したのはいつ頃ですか。
服のことをファッションととらえるならば、小学校の頃ですね。僕が生まれ育った広島県因島では、スポーツをする子が多く、みんなジャージーにウインドブレーカーを着ていて、それがすごく嫌だったんです。「なんでみんなこんなダサいもの着てるんだろう?」って思っていました。それが嫌で5年生位の頃に、自分はジーンズしか履かないと決めてみたり。その頃から、服は好きでした。
でも、因島には服を買うところがなくて、中学生になって雑誌を読むようになり、高校の頃は福山のショップに服を買いに通うようになりました。ショップに通うようになる中で、パリコレの存在を知ったんです。そこでマルタン・マルジェラに出合いました。当時は、マルジェラがどんなコンセプトを提示しているかは知らず、まずそのビジュアルの面白さから興味を持ちました。本や画集などでマルジェラの作品を見ていましたね。人と違うものを欲するところから、ファッションに惹かれたところはあると思います。それに因島で育ったという環境が、探究心を更に強くしたとも思います。とにかく人と同じ服装が嫌でしたね。その後、京都のファッション専門学校に進学しました。
――ファッションを学ぶようになり、何か変化はありましたか。
小さい頃からファッションが好きでデザイナーになりたいという気持ちはありましたが、その思いにも波がありました。自分が作るものに対して、ストレスを感じてしまった時もありました。例えば、マルジェラはコンセプトを重視したコレクションを展開していますよね。その、コンセプトを追い掛けるという点に疑問を持ってしまった。自分はマルジェラのデザインよりもアレキサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノのように華やかで、着飾ることの楽しさを認識できるブランドが本来は好きなんだと気付いてしまった。でも、当時自分が作るものというのは、真逆でコンセプトに寄せた作品だった。
靴のデザイナーになって気付いたのですが、単純に自分はコーディネートが苦手で、一つのアイテムを考え抜くことの方が得意だったんですね。でもファッションは、ランウエイの構成にしても、1ルックではなくて全体で考えないといけない。そのあたりが僕は苦手だったんだな、と靴を作るようになって気が付きました。
――靴を作り始めたのはどういった経緯ですか?
イタリアから帰国後、様々なファッションコンペに応募したのですが、全く引っ掛かりませんでした。自分が絶対面白いと思っていることが全然受け入れられないということは、自分の感覚に問題があるしかない。だから、ファッションに執着するのはちょっとまずいのではないかという考えに至って。一瞬ファッションを辞めようかなとも思ったんですけど、せっかく勉強もしたしファッション自体は好きだし、どうしようかと悩んでいた時にレザーのデザインコンテストがありました。製作ではなく、デザイン画で応募できる項目もあったので、羊をモチーフにした靴のデザイン画を描いて応募したのがきっかけです。その初めて描いた靴のデザイン画が「JILA LEATHER GOODS AWARD 2007」でグランプリを受賞しました。
そのコンテストでは三原康裕さんが審査員でした。後日談なのですが、その最終選考の前日、三原さんの納得のいくデザイン画が見つからず、1次審査で落ちたデザインも含めて、三原さんが全部見るという話になったそうです。その時、三原さんが1次審査で落ちていた僕のデザイン画を見て「これだ!」と思ってくださって、グランプリを頂くことになりました。グランプリの表彰式で三原さんに会えると思っていたら、本人はいらっしゃらなかった。三原さんに交渉して、三原さんのところで絶対働かせてもらおうと思っていたので、ものすごくショックでした(笑)。その後、三原さんのアトリエに行って直訴したのですが、そこでも断られました。でも、三原さんと会って話して、靴を作っていく大変さを教えてもらいました。
――断ることは、受け入れることよりもエネルギーが要りますよね。
そうですね。三原さんからの愛情だなって思いました。その時、僕の靴に対して「現実を超越するファンタジー」という言葉を三原さんに頂きました。素敵な言葉だなと思って、今も使わせて頂いています。
2/3に続く。