13世紀に建てられた国立造船所跡のアルセナーレでは、前頁の「エンサイクロペディック・パレス・オブ・ザ・ワールド」が2百分の1のサイズの模型で観客を迎える。
300m程の縦長の構造を持つ巨大な倉庫のような会場は、小さな作品も空間に飲み込まれずに鑑賞できるように、白いパネルで区切られ、白い布によって天井高も調整された。ここでは、展示を四つのセクションに分割。「自然」「宗教」「身体」「テクノロジー」の順にそれぞれのテーマに沿った作品がセレクトされた。
ルネサンス期のヨーロッパ貴族社会で楽しまれ、世界最古の美術館と言われている「ウンデルカマー (WunderKammer)」では、その当時珍しかった自然物から人工物を並べて一部屋に百科事典のようにミクロコスモスを表現したが、アルセナーレではそれと同じように「自然」から「テクノロジー」まで、人間にとって根源的なテーマにそってミクロコスモスのような展示が広がる。
それぞれのセクションで特筆すべき作品を挙げると、「自然」のセクションからは最も有望な若手アーティストへ贈られる銀獅子賞を受賞した仏人作家、カミーユ・アンロ(Camille Henrot)。彼女は、様々なイメージとラップを組み合わせて、宇宙の形成について語るビデオ・インスタレーション、「グロス・ファティーグ(Grosse Fatigue)2013」を作成した。テンポ良く語られる物語は、人類学的な視点から宇宙の真理を紐解くことを試みており、「すべての知」を集めて展示しようとしたアウリティーのようにビエンナーレのテーマをなぞった作品だ。
「宗教」のセクションからは、一般にも出版・販売されている米国人のロバート・クランブ(Robert Crumb)のカートゥーン作品「ザ・ブック・オブ・ジェネシス(The Book of Genesis)」の原画。彼は新約聖書には明記されていないが暗黙に「語られている」とみなされる、物語の「醜い部分」をカートゥーンに描き、聖書の再解釈を行った。エデンでアダムとイヴが性交している図が印象的な作品だ。埋没しているイメージを形にすることで、フォーマルな「イメージ」が我々の知を形成しながらも、同時に制限していることを再認識させてくれる。
ビエンナーレ全体を通して表現されているもう一つの重要なことは、アーティストは様々な「イメージ」をつくりだすことによってのみ、「知」へ到達できるということだ。
「身体」のセクションでは、キュレーションの一部が米国人アーティストのシンディー・シャーマン(Cindy Sherman)へ解放された。ここでは、天井の白い布が取り払われ、他のセクションとの差別化が計られた。シャーマンは、「身体」を扱った作品を多く作ってきたが、自身の作品は展示せず、キュレーションに徹している。米国人作家のポール・マッカーシー(Paul McCarthy)やデュアン・ハンソン(Duane Hanson)などの「身体」がテーマになっている作品や、ヴードゥー教の儀式で使用する布など、アートの枠組みで語られることのない作品もセレクトした。このセクションでは他にもポーランドの作家、パウェット・アルサーマー(Pawet Althamer)の作品も見物だ。彼はベネチアの人々の顔を象り、それらを抽象的なボディーと組み合わせた。何十体もの人物像が会場に配置され「ヴェネチアンズ2013(Venetians 2013)」と名付けられたこの作品で、人間の頭脳と身体の矛盾を表現した。
「テクノロジー」のセクションからは、米国出身の作家ライアン・トレカーティーン(Ryan Trecartin)の作品。彼は近年テレビで良く眼にするようになったリアリティーショーのパロディーを演出し、リアリティーショーの欺瞞を指摘する映像作品をつくった。ロバート・クランブの作品と同じように、「イメージ」が我々の認識を制限してしまうことを指摘している。醜いキャラクターが登場する映像からは、若い作家独特のエネルギーが感じられる。
このセクションの最後には、ブルース・ニューマン(Bruce Nauman)による、映像作品「Raw Material with Continuous Shift-MMM 1991」が効果的に配置されていた。自身が逆さ吊りでぐるぐると回転するこの映像作品はまるで、ここまで鑑賞してきた作品の情報を処理しようと試みる観客の混乱ぶりを皮肉をこめて指摘しているようだ。「あらゆる知」についての情報など、到底処理しきれるはずがないのだ。
展示の最後を飾るのは、先月亡くなった、ウォルター・デ・マリア(Walter De Maria)の「アポロズ・エクスタシー(Apollo's Ecstasy)」。通常のビエンナーレで良く見られるようなミニマルな作品は、ここで初めて登場する。禁欲的な「アポロ」と相反する「エクスタシー」を床に均一に並べられた真鍮のポールで表現し、パーフェクションを追求した作品は、誰かがつまずけば壊れてしまうという脆さを抱えている。この危うさはすべての知識を集めようとしたパーフェクトな美術館が、「神」の領域にあり、ユートピアに過ぎないということを示唆しているようだ。この会場で、自然光のもとで見れる唯一の作品だ。
3/3に続く。