【日本モード誌クロニクル:横井由利】モード誌の変容。『エル・ジャポン』が独立--4/12前編

2013.12.30

『アンアン/エル・ジャポン』は、1982年『アンアン』と『エル・ジャポン』が分離することになった。『アンアン』のコンセプトがパリ好き、モード好きの女性から、もっと日色を強く打ち出す雑誌になっていったからと聞いている。当時のおしゃれ好きな日本女性にとって、パリは相変わらず憧れの地だった。

平凡出版(現マガジンハウス)は、『アンアン』から独立した『エル・ジャポン』を隔週刊誌から月刊誌(後に隔週刊誌へ戻る)とし、ベーシックなアイテムトレンドアイテムを組み合わせたり、トライブ、エスニック感覚を取り入れカルチャーミックスする、小粋なパリジェンヌスタイルを定着させていった。パリジェンヌのファッションばかりか、ライフスタイルにも憧れる女子の量産に一役買ったのも、『エル・ジャポン』の功績だ。

アメリカでは、1985年の米版『ELLE』創刊により、盤石とされていた既存のモード誌、『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』を脅かすという、異変が起きていた。米版『ELLE』創刊のきっかけは、1983年アメリカを代表する百貨店ブルーミングデールのマンハッタン店で開かれた「フランス・フェア」だった。そこで、『ELLE』の英語版を無料で配布し、一部を有料で売り出すと75%が消化され、更にテスト的に売り出した米版『ELLE』はほぼ完売に近い数字を記録した。

同誌は、平均年齢28歳、高学歴、高収入の、しかもヨーロッパ志向が強い女性をターゲットにしたことが的中し新しい読者の開拓に成功、予想以上の部数売り上げを記録した。そのことは、アメリカのアパレル業界始め広告主に大きな魅力となり、後発にもかかわらず既存モード誌に迫る勢いだった。

アメリカで起きた出来事は、日本の出版社にも飛び火した。フランスのアシェット・フィリパッキ・メディア(以下、アシェット社)は、マガジンハウスに対して合弁会社設立を提案するが、決裂する。新しいパートナーとして、アメリカのタイム・ワーナーを選び、タイム・アシェットという合弁会社を設立し、『エル・ジャポン』は、1989年7月に新創刊した。

新生『エル・ジャポン』の布陣は、出石尚三編集長、アートディレクターは江並直美。これまでの日本式と違ったシステムは、編集長と並列の関係にあるモード編集長の選任にあった。ヨーロッパのモード誌では、モードに特化した編集長を配置している。海外のコレクションで、雑誌の代表としてモード編集長がフロントローに座る場合もよくある。以下、ファッションディレクター、ファッションエディターが後に続く。新システムの導入により、『エル・ジャポン』のモード編集長には原由美子が選任された。

「マガジンハウスは、『エル・ジャポン』の代わりに『クリーク』というモード誌を創刊し、当時フリーでスタイリストをしていたカリーヌ・ロワトフェルドがスタイリングを担当したり、他誌も独自の誌面作りを確立していました。なのでスタイリストとカメラマンはなるべく他誌で仕事をしていない人にお願いし、他誌がほとんどやっていなかった“和”のアイテムを扱うページも作り、仏雑誌の日本版のニュアンスを表現しました」と、原さんは当時を振り返る。

アシェット社は、米版『ELLE』の成功例をもとに、各国版エルをコントロールするようになった。日本の文字は読めないが、ビジュアルの統一を計るために、仏版『ELLE』のADが来日し、日本側のADとミーティングを繰り返した。ただ、日本の縦組みの文字は、字組やフォント(当時編集部にはDTPの走りともいえる、データ入稿が始まっていた)の問題があり、互いに理解し合うには隔たりがありすぎた。

アメリカ版が成功したことは、その後の雑誌作りに大きな変化をもたらしたと、原さんはいう。質の良い情報を発信し、読者が興味を持つ面白いページ作りをすれば発行部数が伸びるという編集主導の雑誌作りから、編集長には広告を取るための戦略を練るマネジメント能力が必要とされる新しい時代に移行していった。

参考文献
*原由美子著『原由美子の仕事 1970→』(ブックマン社)
*金平聖之助著『アメリカの雑誌 1888-1993」(日本経済新聞社)

(5/12に続く。15年続く森明子体制へ。)
Yuri Yokoi
  • 『エル・ジャポン』(マガジンハウス刊)創刊号1982年5月号
  • 『エル・ジャポン』(タイム・アシェット刊)本格始動、実質的に創刊号1989年7月
ページトップへ