魔術師のアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)は1875年10月12日生まれ。イングランド・ウォリックシャー州出身。1947年12月1日逝去。
厳格なキリスト教徒で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれ育つ。87年に父が亡くなると多額の遺産を相続。一方で、キリスト教の一派であるエクスクルーシブ・ブレザレン派の寄宿学校に進学したクロウリーだったが、宗教教育への反発を抑えることが出来ずに退学。以降は学校を転々としており、最終的にはケンブリッジ大学へと移籍すると、在学中に魔術結社「黄金の夜明け団」のメンバーと接触。98年に入団を果たしている。
しかし、団の内紛によってメンバーを追放されると、クロウリーは世界一周の旅に出る。帰国後は02年にヒマラヤのK2へ、05年にカンチェンジュンガへの初登頂に挑戦。その一方で、03年にはローズ・ケリーと結婚し、今度は新婚旅行として世界一周の旅に出る。その途上でエジプトのカイロに立ち寄ったクロウリーを待ち受けていたのが、アイワスという霊的存在との接触だった。この体験を元に執筆したのが、後のテレーマ教の聖典となる「法の書」である。
07年にクロウリーは魔術結社「銀の星」を結成。09年には魔術専門誌『春秋分点』の発刊に着手し、公的な活動をスタートさせた。翌年には劇場で「エレウシスの儀式」を公開し、マスコミの間でも大きな話題となっている。こうしたクロウリーの活動は、宗教団体「東方聖堂騎士団」の注目を集め、彼らはクロウリーをグランドマスターに指名。12年にはイギリス支部となるMMMが設立され、クロウリーは騎士団のメンバーとして活動することになる。
その後、20年にイタリアのシチリア島に渡ったクロウリーは、テレーマ教の修道院を設立。ここで、大規模な性魔術の儀式を繰り返し行っている。しかし、23年に弟子の1人が病死すると、クロウリーはイタリア政府から国外退去を命じられることに。その中でも、25年には東方聖堂騎士団の首領に就任しており、数多くの魔術的な著作や「トートのタロット」などを発表している。
しかし、魔術結社を運営する一方で、クロウリーには常にスキャンダラスな話題が付きまとっていた。結婚と離婚を繰り返し、名誉棄損の裁判を起こし、ついには財産も失ってしまったクロウリーは47年に死亡。当時72歳だった。
彼の存在は様々な影響を与えており、サマセット・モームはクロウリーをモデルに『魔術師』を書いた。オジー・オズボーンの楽曲には『ミスター・クロウリー』がある。また、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットに登場している。