9月16日は竹久夢二の誕生日です

2014.09.16

画家で人の竹久夢二は1884年9月16日生まれ。名は竹久茂次郎。岡山県邑久郡(現・岡山県瀬戸内市)出身。1934年9月1日逝去。

代々酒造業を営む家に次男として生まれる。1901年に家出をし上京。その翌年に早稲田実業学校専攻科入学した。在学中は、スケッチを『読売新聞』などに投書していた。05年、友人であった作家・荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。その後も、日刊『平民新聞』などに諷刺画などの絵が掲載され、同年6月、『中学世界』に「筒井筒」が第一賞入選。このことをきっかけに画家を志し、初めて夢二と名乗るようになる。

23歳になった07年、早稲田鶴巻町に絵葉書店「つるや」を構える岸たまきと出会う。一目で恋に落ちた夢二は、客として毎日店に通いつめた挙げ句、出会って2ヶ月後に結婚。翌年長男・虹之助が生まれるが、翌々年には離婚。しかしたまきとは、その後も同棲と別居を繰り返す。

数多くの美人画を残したことで有名な夢二だが、恋愛遍歴についてやはり数々の評伝があり、自身の日記や手紙などで語られる愛の言葉は、後世の多くの創作の題材ともなっている。それらの抒情的な作品は“夢二式美人画”とも呼ばれた。夢二を巡る3人の女性として特に取り沙汰されるのは、戸籍上唯一の妻となったたまきと、女子美術学校の学生で夢二のファンであった彦乃、そして東京美術学校で美術モデルをしていたお葉である。夢二の代表的な絵画作品である「黒船屋」は彦乃かお葉がモデルになったという説がある。彼自身の独特な美意識による“夢二式美人画”は、日本画の技法で描かれつつも洋画技法も取り入れられている。あえて様々な表現形式を試み、常に新しい美術のあり方を模索した夢二だが、それらは後世になってから評価されたものであり、当時は印刷された書籍の表紙や広告美術などばかり目に触れ、大衆人気という形で脚光を浴びたそうだ。

また、夢二は児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。最初の著書『夢二画集-春の巻』を発刊し、ベストセラーを誇る。続いてカード集『夢二 ヱハガキ』、婦人之友社の雑誌『子供之友』『新少女』の挿絵、セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画など合わせて270余点を作画する。

文筆の分野でも、詩、歌謡、童話などを創作しており、12年には雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。後に、この詩は宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮によって曲が付けられ、芸術音楽会にて発表、18年にセノオ楽譜から発刊すると全国的に大ヒット。大衆歌として全国的な愛唱曲となり、全国各地に碑も建てられたことでも有名。

数々の個展も開いてきた夢二は、12年、京都府立図書館にて最初となる「第一回夢二作品展覧会」を開いた。続いて金沢旅行中にも「夢二抒情小品展覧会」を、また19年には日本橋三越本店にて「女と子供に寄する展覧会」なども開催。またこの頃、『長崎十二景』『女十題』のシリーズ制作も行った。

その後も、関東大震災後の東京をスケッチし『東京災難画信』に寄稿したり、浮世絵技法の新版画といわれる木版画「秋のしらべ」などを発表。これらの江戸情緒と異国趣味にあふれる作品を描く夢二は「大正の浮世絵師」とも呼ばれた。その他にも多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨、浴衣などのデザインも手掛けた夢二は日本の近代グラフィックデザインの草分けの1人とされており、画集・詩文集・童話は21世紀に入っても様々な装丁で刊行されている。

晩年、夢二は海外を志向する。31年には「渡米告別展」を新宿三越(現在のビックロ ビックカメラ 新宿東口店にあった)で開催後、アメリカヨーロッパへ渡る。約2年半の期間、アメリカ西海岸ドイツ・チェコ・オーストリアフランススイスを巡り、多くのスケッチ画を残す。33年9月18日の帰国後は結核を患って病床につく。そして、9月1日早暁「ありがとう」の言葉を最後に死去。9月19日有島生馬らにより東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬され、墓碑には有島生馬による揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれている。

66年には夢二の故郷である岡山県に夢二郷土美術館が設立。その夢二郷土美術館本館が2007年版ミシュラン旅行ガイドで一つ星獲得の評価を得ている。
編集部
  • 夢二郷土美術館オフィシャルサイト
  • 夢二郷土美術館オフィシャルサイト
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