写真家のマン・レイ(Man Ray)は 1890年8月27日生まれ。 1976年11月18日逝去。アメリカ合衆国・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。本名はエマニュエル・ラドニツキー(Emmanuel Rudnitsky)。
ユダヤ系ウクライナ人で仕立て屋の父メラックと、ユダヤ系ベラルーシ人でお針子の母ミーニャのもとに4人兄弟の長男として生まれる。1904年、高校に入学し製図、機械工学、レタリングなどを学ぶ。卒業後は出版社で図案を作りながら生計を立て、画家としても活動。11年、ニューヨーク5番街に写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)と、画家・キュレーターでもあった写真家のエドワード・スタイケン(Edward Steichen)の画廊「291」で開催された「セザンヌ展」にてヨーロッパの前衛美術画家やアッシュカン派の作品に影響を受け芸術家になることを志す。
13年、実家を出たマン・レイはニュージャージー州リッジフィールドにある芸術家たちのコミュニティーに居を移す。15年には、フランスの詩人家アドン・ラクロア(Adon Lacroix)と出会い結婚。本名、エマニュエル・ラドニツキーを縮めたマン・レイとして活動し始めた。写真技術を習得したのもこの頃。また同年、「階段を降りる裸体 No2」で当時前衛的な絵画を生み出していたフランス人美術家のマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)と親交するようになり、マン・レイの作品にも彼の影響が現れ始める。そして、15年10月に絵画とドローイングによる初めての個展を開く。
20年、マン・レイは、デュシャン最初の光学機械で、初期キネティックアートの代表作でもある「ロータリーガラスプレート(Rotary Glass Plates)」の制作を手伝う。後にデュシャンと1号限りの発行となる雑誌『ニューヨーク・ダダ』を発行。デュシャンの女装姿「ローズ・セラヴィ(Rrose Selavy)」を表紙にしたその雑誌が、芸術思想・運動ニューヨーク・ダダの発端となり、様々な芸術家たちにも影響を与えた。
その翌年7月、エコール・ド・パリの時代であったパリに渡り、モンパルナスに住みながら本格的に写真に傾倒。同年6月、パリに戻っていたデュシャンの紹介により、パリのダダイストであるアンドレ・ブルトン(Andre Breton)、ポール・エリュアール(Paul Eluard)、ルイ・アラゴン(Louis Aragon)、フィリッポ・スーポー(Philippe Soupault)らと交友を始める。そこで、のちに恋人となるフランス人歌手・モデルのキキ(Kiki)にも出会う。20年代のほとんどを彼女とともに行動し、モデルとして撮り続けた写真がファッション雑誌などに掲載。彼女を“モンパルナスの女王”として有名にし、自身も職業的な写真家として成功を収めた。更に“今世紀最大のアートディレクター”と呼ばれていたロシア人の写真家で『ハーパーズ・バザーズ』のADを務めていた、アレクセイ・ブロドヴィッチ(Alexey Brodovitch)とも出会い、ブラッサイ(Brassai)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)らと共に“ファッション写真”というジャンルを作り上げた。見開き2ページで写真や広告を使ったのも、ブロドヴィッチが最初に思い付いたアイディアである。この頃既に、マン・レイの1回の撮影料は1,000フランになることもあった。
29年、キキと別れてからシュルレアル写真家でアシスタントだったリー・ミラー(Lee Miller)と関係を持ち始めた。マン・レイの有名な「恋人たち」で、空に浮かんでいる巨大な唇はリー・ミラー自身の唇を象ったものである。
職業写真家としての初期の顧客は主に、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)、アンリ・マティス(Henri Matisse)らのシュルレアリストたちだった。次第に売れっ子となり、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)などの芸術界の重要なメンバーの多を撮影した。また、彼らの展示にも参加し、マン・レイの代表的な作品「 破壊されるべきオブジェ」や、キキの裸体をバイオリンに見立てた「アングルのバイオリン」などを展示した。
マン・レイはパリでの滞在期、デュシャンらと共に実験的なサイレント映画の制作も手掛けている。23年に発表した最初の作品「理性への回帰」はダダイズムの映画版とも言われ、カメラを使用せず、フィルムへ直に塩や胡椒を振り掛けるなどしたイメージ群の脈絡のないコラージュ映像が映し出される。また、自身らがチェスをする映像なども映像詩として残した。
晩年、第二次世界大戦が始まるとパリを離れアメリカ・ロサンゼルスへ移る。ほどなくしてマン・レイはプロダンサーでアートモデルとして活躍していたジュリエット・ブラウナーと出会い、46年に2人は、同じくアメリカへ移ってきたマックス・エルンスト(Max Ernst)、ドロテア・タニング(Dorothea Tanning)たちとと共に合同結婚式を挙げる。
41年には、油彩画を中心とした制作活動に入る。写真の仕事はほとんど引き受けず、レイヨグラフの実験やオブジェ制作などに専念した。しかし当時、抽象表現主義が流行り始めていたアメリカにおいて活動は評価されず、51年、再びパリ・モンパルナスに戻ることとなる。また、この頃日本人彫刻家、宮脇愛子を気に入り積極的にポートレートを写真を撮影していた。
63 年、自伝『セルフ・ポートレート』を出版。76年11月18日肺感染が原因で死去、モンパルナスの墓に埋葬された。墓碑銘には妻ジュリエットの意向で「関わりを持たず、だが無関心ではなく」と刻まれている。2010年7月には、東京国立新美術館にてマン・レイ展が開催された。同展では、ジュリエットが生前に設立した、全作品の著作権を所有するマン・レイ財団が所蔵する約400点もの作品が紹介された。