思想家の吉本隆明は1924年11月25日生まれ。東京・月島出身。
51年に東京工業大学大学院で特別研究生としての前期課程を修了すると、東洋インキ製造に就職。工場で働く傍らでいくつかの詩集を発表し、54年に詩誌『荒地』で新人賞を受賞している。56年には初代全学連委員長の武井昭夫と共著で『文学者の戦争責任』を発表。思想家として活動し始めたのはこの頃からで、50年代後半には戦争責任問題について、文芸評論家の花田清輝と激しい論争を繰り広げている。
やがて60年安保闘争が始まると、吉本もこの運動に身を投じている。6月行動委員会を組織すると、6月15日には国会構内で行われた日米安保への抗議集会に参加。南門で警官隊と衝突すると、建造物侵入の現行犯として逮捕されている。なお、この取り調べ中に雑誌『近代文学』で文学賞の選考が行われ、吉本の「アクシスの問題、転向ファシストの詭弁」が第1回受賞作品に選ばれた。
61年に同人誌『試行』を創刊すると、以降は大手メディアに所属せず、市井の立場から意見を世間に発表し続けた。その自立の思想は安保世代や全共闘世代の若者達にとって、精神的な支柱となっている。そんな、吉本の思想を代表する作品の一つが、68年に発表された著作『共同幻想論』だ。この作品で吉本は国家という存在を、そこに暮らす人々による幻想の産物であると捉え、そこに至るまでの考察を全11編にわたって論じている。
70年にはそれまで勤めていた特許事務所を退職すると、以降は文筆業に専念。『最後の親鸞』や『悲劇の解読』など数々の書籍を発表し、戦後思想に多大な影響を与えている。80年代には、テレビや漫画、ロック音楽、ファッションといったサブカルチャーなどについても言及しており、これらを肯定的に論じたこともあって、吉本の思想はより大衆へと受け入れられていった。
そんな中、84年に「コム デ ギャルソン(COMME des GARCONS)」を着た吉本が、女性誌『an・an』に掲載される。すると、これを見た思想家の埴谷雄高は、朝鮮戦争やベトナム戦争で利益を得た資本主義企業のぼったくり商品を着るとは何事かと吉本を非難。これに対して吉本がコム デ ギャルソンを擁護する声明を出したことから、2人は激しく意見を戦わせ、これらは後に“コム デ ギャルソン論争”と呼ばれるようになる。
その後も、オウム真理教やアメリカ同時多発テロなど、数々の事件やカルチャーを独自の視点で論じていたが、12年に肺炎のため入院。そのまま息を引き取った。
小説家・吉本ばななは次女である。