芸術家のイサム・ノグチは1904年11月17日生まれ。アメリカ合衆国・ロサンゼルス出身。日本名は野口勇。88年12月30日逝去。
詩人の野口米次郎の息子として生まれるが、生誕時には既に父は帰国しており、母親レオニー・ギルモアの私生児として育った。2歳の時に母親と共に日本へと移住。しかしその時、米次郎には既に日本人の妻がおり、レオニーとイサムは茅ヶ崎の家に2人で住むようになる。
母の意向もあって13歳で渡米すると、高校卒業後はコロンビア大学の医科予備校へと進学した。その一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチ・スクールの夜間学校に通い始め、そこで彫刻家としての才能を開花させた。以降は大学を中退してアーティストの道へと専念。27年には奨学金を獲得してパリに留学すると、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの下で修行に没頭した。この体験によってモダニズムの抽象的表現に強い影響を受けると、帰国後に作品を相次いで発表。しかし世間の評価は得られず、イサムはこの時期、アジアやメキシコ、ヨーロッパを旅しながら、芸術家としての道を模索し続けていた。
41年に日本軍が真珠湾を攻撃すると、アメリカでは日本人排斥の声が挙がるようになる。これを見たノグチは、42年に「民主主義のための二世文筆家と芸術家動員」を組織。その一方で自ら志願して日系人の強制収容所に入るが、収容された日系人からはアメリカのスパイとして扱われてしまう。結局、ここにも自分の居場所はないと感じたノグチは、失望のままに収容所を後にする。
終戦後は46年にニューヨーク近代美術館で「14人のアメリカ人展」に作品を出品。これが評判を集めると、イサムの元には次第に仕事の依頼が入るようになる。また、日本で女優として活躍する山口淑子と恋に落ちると、51年に結婚。鎌倉にアトリエを構え、北大路魯山人の指導の下で素焼き作品を発表している。なお、日本への滞在中には慶應義塾大学教職員ホールの室内デザインや、広島平和記念公園の橋の設計など、数々の建築デザインも手掛けた。中でも、岐阜提灯を元にした照明彫刻「AKARI」は後にシリーズ化しており、ノグチもたびたび岐阜を訪れては新作を発表している。
58年に山口と離婚すると、ノグチは活動の拠点をニューヨークへと移した。また、この頃からノグチは“大地を彫刻する”というアイデアを形にすべく活動しており、56年から58年にかけてはパリのユネスコ本部で庭園を製作。その後も数々の庭園を手掛けており、60年にはイスラエル国立博物館の隣に、広さ2万平方メートルに及ぶビリー・ローズ彫刻庭園を完成させた。
晩年になると、ノグチはアメリカと日本を行き来するようになる。香川県の牟礼町にアトリエを構えると、土地で採掘された花崗岩や玄武岩を使った彫刻作品を精力的に発表。一方で、85年にはニューヨークにイサム・ノグチ庭園美術館を設立し、翌年にはヴェネチア・ビエンナーレでアメリカ館の代表に選ばれたている。その後も数々の芸術賞を受賞し、名実共に世界を代表する彫刻家となるが、88年に心不全のために逝去。生前に札幌市からの依頼を受けて設計に着手していた「モエレ沼公園」は、没後17年の歳月を掛けて05年にオープンした。